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私と加藤は一旦事務所に戻り、光子を帰らせることにした。
私たちが事務所のところまで来た時、部屋の中から光子の歌声が聞こえて来た。
「丘の団欒にあくがれて……故郷遠き若き子が……」
光子が歌っているのはワルツ調の美しい歌だ。
「富山中学の寮歌だ」
「加藤、きみは意外なものに変に詳しいな」
私たちがノックした瞬間、歌声が止んだ。
扉を開けて私たちが入って行くと、光子は赤くなっている。
加藤は部屋を見渡して満足そうに言った。
「ああ、綺麗になっている。ありがとう。さて……私たちはこれから西宮の女學校へ行くことにしたので、今日の帰りは遅くなるでしょう。天知くんはもう帰っていただいて大丈夫ですよ。明日は9時にお願いします。労働契約など詳しいことはまた明日にでも」
加藤の返事にうなずいた光子は帰り支度を始めた。光子の本革製の鞄から、またいい匂いがする。
「これは何の香りかな?」
思わず言った私に、恥ずかしそうに光子が答えた。
「きっと鞄に入れっぱなしになっているお菓子の香りですわ。匂いが鞄に染み付いてしまったかしら。あ、お菓子は知人が買って呉れたんですけど、子ども扱いされてますわね」
光子が鞄から取り出したのは、紙袋に入っているジェリイビインズだった。入れっぱなしのせいでべたついたのか、紙袋を通して色や香りが伝わってきた。
「いい匂いだ。全部蜜柑色ですね、これが一番美味いのかな」
意外にも、加藤も話に乗ってくる。
「どうなんでしょう。どれも味は同じだと思いますけど。香料と着色料でごまかしてるだけですわよね。それに、買って呉れた人は、そんなことには無頓着な人ですから、適当に選んだだけでしょう」
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