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 ブースの中では、20人ほどの先客を前に、小洒落た紺のブレザーに髪を綺麗に七三に分けた男が、何やら説明していた。先客たちがずいぶん熱心にメモを取っているので、いったい何を話しているのかと耳を傾けると、いかにその企業が素晴らしいか、いかにそこで働くことが素晴らしいかを、したり顔で話しているのであった。初めのうちは「ほうほう」と素直に聞いていたのだが、やがてブレザーが「説明は以上です。何かご質問は?」と話を締めくくった時に、「おや?」と思った。ブレザーの話を信じるなら、その企業で働きさえすれば、人生はバラ色間違いなしということになる。だが、いくらなんでも、そんな単純な話はなかろう。そう思い、こう聞いた。  「この会社で働くに当たって、大変なことは何ですか?」  「『大変なこと』・・・?」  「ええ。働く以上、大変だと思うことだってあるでしょうし、何なら辞めたいと思うことだってあるはずでしょう。僕は、そういった、経験といいますか、この会社ならではの苦労をお伺いしたいのです」  何も突飛なことを聞いたつもりはなかった。しかし、それまで得意満面の様子であったブレザーは、怪訝そうな表情をしてこちらを見つめた。そして次に、口の端をゆがめてニヤリと笑った。  「『大変』ねえ・・・ワタシは少なくとも、この会社に入ってから『大変』だと思った経験はないし、ましてや『辞めたい』と思ったことなんか、いちどもないですよ」  「『大変』だと思った経験はない」だなんて、そんなことが有り得るのだろうか?のんきで無責任な大学生活の時でさえ、のんきなりに「大変だ」「苦しい」と思ったことがあった。それなのに、自分で自分の金を稼がねばならない会社人にもなって、苦労を感じないなんてことがあろうか。それとも、よっぽどこのブレザーは楽天的な御仁なのだろうか。どうも納得がいかないので、重ねて質問をしようとすると、  「あ~、そうそう」  いかにもわざとらしい、大袈裟な素振りで、ブレザーはこう付け加えた。  「ひとつ『大変』なことを思い出しました。それは・・・毎朝早起きしなきゃいけないこと!」  そう言った途端、ブレザーの周りを取り囲んだ黒い物体から、笑い声が上がった。当のブレザーご本人も一緒になって、やけに甲高い声で「ハハハ」と笑ってやがる。
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