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「……絶対許さない」
「許さなくていい。お前に嫌われていたほうが私も気が楽だ」
あれから少し経って今。リリーは再び大木に腰掛けながら、主人を睨みつけている。一方で、主人はそんなリリーを無視して服を整えている。
「こっちは一生忘れる事のない辱めを受けたのよ。他になんか言葉ないの」
「その前に、私は意識を失ったお前の面倒を見ていたのだぞ。先に言葉を言い渡すのはどちらだ」
「…………絶対許さない」
主人の服を整える手が止まる。リリーの鋭い眼差しが主人の背中に突き刺ささるなか、服の襟を立てていた手を離すと、主人はため息を含んだ。
「キリがない。話を変える」
「まだ話は終わってな……」
「お前が気を失っていた時、その間の記憶はあるか?」
「……!」
リリーは思わず口をつぐんだ。
(記憶……意識がない時の……)
キッチンにいた時に襲ったあの出来事。急に暗転した視界に、体の感触の喪失。今でも鮮明に蘇がえる。発声や身動きも思い通りに出来なかったあの時。その後は視界が開けて体の感覚が戻ったけれども、思い通りにはできず、勝手に動く体に振り回された。
主人にキッチンの後の話を聞くまでは頭が混乱して訳が分からなかったが、あの体験をしている間、自分は意識を失っていたらしい。
だが、いまだに信じがたい。
「どうなんだ」
「っ!……いえ、何も」
「……。そうか」
リリーは顔をしかめる。毎度のことながら彼はかなりのせっかちだ。屋敷でもそうだったが、考える暇を与えてくれない。なんと困った人なのだろう。……人ではないけれど。
――だけどしまった。いきなり声を掛けられた所為で思わず嘘を吐いてしまった。
言ってしまったものは仕方がない。ひとまずあの体験の話は置いておこう。彼にはもう少し落ち着いた後に、記憶が戻ったように言い訳をつけてこの話をするとしよう。今はまだできる状態ではないのだから。それに……。
(……"彼女"のことをどう話したらいいか、まだ考えがつかない)
最後にあの体験で見た出来事が、リリーの頭から離れなかった。
「おい、小娘」
「何? わっ!」
釣られて頭を上げてみると、いきなり目の前に何かが飛んできた。すかさずリリーはそれを受け止めた。
「何すんのよ! ……ランタン?」
受け止めた物を見てみるとそれは灯具だった。剥がれかけの鍍金の持ち手に、火の灯っていないガラスの中は心なしか少し暗い。
「なんでランタンなんか……」
「手が空いているなら持っていろ。闇の中も見えないろくでなしにわざわざ持って来てやったんだ。こっちはお前も担がねばならんだというのに……あぁ、今頃はさぞやいい気味だろうな。目に浮かぶ」
何かを思い出したのか、顎に手を当てるとクツクツ、と馬鹿にしたように主人が笑い出した。リリーの脳裏に不審が過る。
「待って、それってどういう事?」
「お前の連れの話だ。ハボックと言ったか? 青目の小僧だよ。あぁ、最後に見た姿は実に滑稽だった」
「嘘でしょ…!! ハボがここにいるの!?」
持っていたランタンをその場に捨てると、大木に下ろしていた腰を勢いよく起こしてリリーは主人に歩み寄った。
「ここというには少々遠い場所にいるだろうが、まぁ、大した事ではない。そのうち見つかる」
「何が大した事ないよ! あんたハボに何したの!?」
「しつけをしてやったまでだ。彼奴の今後が楽しみだな。今日のことは決して忘れないだろう」
再び主人がクツクツクツ、と笑い出す。まるで我慢が出来ないというように、主人は実に愉快そうに肩をヒク付かせた。
そんな主人の姿を見るや、リリーは片腕を振り上げる。自分の頭の横に生える赤い花びらを掴み上げると、めいっぱいに強く握りしめた。
「クックッ……何をしている」
リリーの突然の行動に、薄ら笑っていた主人も笑いを止めた。
「……約束したわよね。ハボックを危険な目には合わせないって、じゃなきゃ"彼女"を私が傷つけるって」
リリーの掴む花びらにシワがつくられる。その姿を主人も無言で見つめる。
「彼女を傷つけてほしくないなら、今すぐハボを探しに行って。しないって言うなら、今ここで彼女を引き千切るわ」
もういちど、花びらをグッと引っ張り上げるとリリーは主人を睨みつけた。次に主人から出るであろう言葉を待って。
――だがリリーの期待した言葉は返されなかった。
「必要ない」
「……今なんて?」
「はっきり聞こえただろう。二度は言わんぞ」
呆気にとられるリリーを置いて、それだけ言うと主人は背を向けてスタスタとどこかへと歩きだした。
「ちょっ、どこ行くのよ!? "彼女"が傷ついてもいいって言うの!?」
――まさか相手にされない事になるなんて。
咄嗟に呼び留めると、主人も足を止めて再びリリーに向き直る。
「ならば逆に問おう。お前は本当に"彼女"を傷つけられるのか?」
「っ……!」
主人の放った言葉にリリーの花弁を持つ手がピクリと震える。主人も一歩、リリーに近づく。
「腹が立つほど頭がまわるお前の事だ。危険は承知だろう? 身体のみならず、魂までもが彼女と混じり合ってしまっているお前が、仮に彼女に危害を加えたとして、自分に何も起きない訳がない。何かが起きるかもしれない。そう予感しているのではないか?」
「それは……」
そうだ。今はこの花と一心同体と言っても過言ではない。そう聞いた。主人が言ったように、この花を傷つければもしかしたら自分の身にも何かが起きるかもしれない。そんな事はずっと前に分かっている。
「ならば」
「!」
気が付くと、離れていた主人がいつの間にか目の前に立っていた。主人は布で隠れた顔をこれでもかと近づけて、リリーの顔を覗き込む。
「その行いは適切とは言えんな。見透けた脅しなんぞ、相手を煽るだけだぞ。元より私に脅しをかけるとはどういう事か、お前はまだ分かっていない」
嫌に低く、嫌に重たい。まるで耳の奥深くをねじ切るように、主人の声が耳に響いた。それと同時に、自分の額を冷たい汗が滴り落ちていくのが妙に強く感じられた。
「……っ」
「今後は気を付けることだな」
それだけ言うと主人はスッとリリーから顔を離し、また同じ方向に向かって歩き出した。主人が林と雑木の中をさっさと進んでいくのに対し、リリーは肩をすくめて、遅れてゆっくりとその後を追いかけた。
…………放り投げたランタンを地面に残して。
To be continued.
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