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昨日、あの雨の夜以来、初めて橘さんに会った。
引っ越し業者が最後の荷物を持ち去ったあと、橘さんは何もなくなった隣の部屋で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「橘さん……」
開けっ放しだったドアの外から、声をかけたのは私だ。振り返った橘さんは、私の姿を見て、困ったような表情で少しだけ笑った。
「なんにもなくなっちゃったな……」
橘さんの声が、部屋の壁と天井に響く。私は一歩踏み出し、部屋の中へ足を踏み入れる。
隣の部屋に入ったのは、この日が初めてだった。
「もうずっと前から苦しかったんだ。彼女の存在が重すぎて……だけど別れることもできずに、ずるずると付き合って……結局彼女のことも和花ちゃんのことも傷つけた」
私は黙って橘さんの声を聞く。
「最低な男だな……俺は」
「だったら私も、最低な女です」
ほんの少し口元をゆるませた橘さんが、床に置いていたリュックを肩に掛け、私に言った。
「元気で」
部屋に薄い日差しが射し込んできた。春から遠く離れた街で社会人になる彼とは、もう会うこともないだろう。
「橘さんも……元気で」
私のすぐ横を、橘さんが通り過ぎる。かすかに感じた匂いに、あの雨の夜を思い出す。
私を抱いたあと、すべてを捨ててしまった彼。そんな彼に、私がついて行くことはなかった。
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