=夢のあとの物語=

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=夢のあとの物語=

短い恋は傷も浅い。 しかしそれは一般論であり、陽平ほど恋に落ちやすいダメ男に期間の長短は関係ない。それでも昨日、加藤女史から諭された話は、きちんと陽平の心の中に刻まれていた。 「今までのことは全て夢・・・・・・か。それにしてはダメージが深い夢やったな。」 さすがに四十までの坂を半分登った歳にもなると、より現実を見るための視野を持てるのだろう。スッパリとはいかないまでも、昨日の加藤女史が開いてくれた激励会のおかげで少しは前を向いて歩けそうだ。そう思っていた。 とはいえ、本格的に切り替えていくには、何かきっかけが必要だ。そして、陽平の目線が本棚に移ったとき、何かがひらめいたようだ。 陽平はパソコンを起動し、なにやらカチャカチャとキーボードを叩き始めた。 ―――ボクと彼女の物語~しず心なく花の散るらむ~――― どうやら短き恋の顛末を物語にしようという腹積もりのようだ。案外彼の仕事は文章を書くことが多く、つれづれなるままに文章を綴っていく事に慣れている。モバイルを持ち歩く陽平にとっては、その気になれば職場でも通勤途中でも打ち込める。 そうと決まれば陽平の気分はかなり晴れやかになった。琴音のことだけでなく、寧々との出会い、その前のキャバの女の子とのことなど、話題にできる材料はふんだんにあった。 そして陽平は書いた。書いて書いて書きまくった。気がつけば二時間程で三十ページほどを書き上げていた。 「ふう、今日はこんぐらいにしといたろか。」 こうして陽平の新しい手慰みが始まったのである。 翌日、陽平は出社と同時に大きな声であいさつをした。 「おはようございます!」 そんなことはめったにあることではない。誰もが不思議そうな顔をして陽平の挙動を見つめていた。 陽平はツカツカと加藤女史のそばまで行き、「先日はありがとうございました」と礼を述べ、ニッっと笑った。それだけで通じたのだろう。加藤女史は「しっしっ」と軽く手でいなして知らぬ顔。 二人以外は誰もわからぬ謎に包まれた朝になったのである。 そして昼には恒例のお弁当合戦が開かれた。今回は陽平も自らお弁当を作ってきている。 「尾関さんそんなに起用でしたっけ?」 梨香が不思議な顔で陽平を見つめていると、 「これ私がもーらうっ!」 瑞穂が先駆けて陽平のお弁当を独り占めしようとした。それを見て黙っている梨香ではなかった。 「アカンで瑞穂。そもそもこの大会の主催者はウチやねんから。」 「誰が決めたん、そんなこと。」 陽平は二人の中を割って入るように瑞穂の抱えている弁当箱を取り上げると、すっと蓋を開けて、三人に中身を見せた。 「大丈夫。ちゃんと三人分あるから。」 中に入っていたのはサンドイッチである。玉子焼きとイワシの蒲焼とレタスとをパンで挟んだ簡単なものだったが、女性陣にはウケた。 「簡単だったんですよ、考えてみれば。意外と身近なところに解決方法があるんやなって思いました。いろんなことがね。」 加藤女史もその意味までは理解できなかったが、言わんとしていることは解釈できた。 「成長やな。」 「はい。」 するとまたぞろ梨香が割って入る。 「また二人だけわかったような話してる。ホンマに怪しい関係ちゃいます?」 「こんなお馬鹿の相手は勘弁やで。佐々木さんか中浜さんかが面倒みたってな。」 それを聞いて梨香と瑞穂が目線を合わせる。なぜかニッコリ微笑む二人。 ただ、陽平が不思議に思ったことが一つあった。梨香の作ってきたお弁当の中に、陽平が好物としており『かば屋』でよく食べるナスの素揚げと牛バラのケチャップ炒めが並んで入っていたことを。 お弁当合戦のあと、加藤女史が陽平を呼びつけた。 「どんなきっかけや?」 「ちゃんと形になったら伝えます。」 加藤女史は陽平のスッキリとした笑顔を見て、安心したように肩を叩いた。 「また『ロンリー』にも行っておいでや。」 「はい。もちろん。」 新しい道を歩き始めた陽平の月曜日であった。 なんだかんだで盆が過ぎ、夏休暇をとり損ねた社員たちが悲鳴を上げている。家族連れはともかく、独り者や子育てが終わった世代の社員たちが、夏季休暇のタイミングを逃したまま八月を終えようとしていた。 陽平も実家の綾部までは、さほど遠いわけでもなく、帰ったところで酪農の仕事を手伝わされるだけなので、あまり帰省したいと思っていない。だから、彼はまだ一日たりとも夏季休暇を消化していないのであった。 そんな折、総務部長から声がかかる。 「尾関クン、せめて三日ぐらいは夏季休暇をとってもらわんと困るんやけどね。若いんやから、どっか三日ぐらい遊んでおいでや。」 とは言うものの、そんな予定など陽平にはなく、少し困った顔をしていると、 「どや、いっぺんでのうても、週に一日ずつでもええやんか。九月いっぱいまでは夏季休暇の対象期間やから、あんじょう休んでや。」 しかし、現実的に夏季休暇の申請をするためには直属の上司の印鑑が必要だ。このことを加藤女史に話すと、 「そ、じゃあ今週の金曜日、まずは最初の休みね。精々おめかしして行っておいで。」 そういうと、申請用紙の日付けの欄に今週、来週、再来週の金曜日を記入し、とっとと課長へとまわしてしまった。 「これから毎週ですか?」 「なんか文句ある?」 「いえ、ありません。」 これで今週から陽平の業務は週休三日制になってしまった。休みが増えたのはよいが、こなす仕事が減るわけではない。逆に言えば、五日かけてこなしていた仕事を四日で仕上げなければならないということである。陽平は無理やり休むために仕事時間を圧縮させるというある意味理不尽な体制をとらざるをえなくなったのである。 しかし、今の陽平はそれをこなせるだけのモチベーションがあった。あの日から書き始めた物語が順調に書き綴られているからである。 女の子たちとのエピソードを振り返りながら、想い出を記録していく。まさに想い出ノートのようなものだ。さすがにリアルな描写だけではただの記録帖になってしまうので、フィクションの部分を膨らませることを忘れなかった。 そして最初の夏季休暇となる金曜日を迎える。 朝からパソコンとキーボードと記憶と戦いながら言葉を紡いで文章を綴った。そして夕方には『ロンリーナイト』へ出かける準備をするのである。 もしそこで琴音に出会ったらどうしよう。そのときは笑って過ごせばいいかも。本を書き綴ってることを言ってもいいかもしれない。彼女に読んでもらえれば、それはそれで嬉しいし、自分の意志も伝えられる。 そんな想いで部屋を出た。 すでに店はオープンしていた。 いつもどおり支払とサインを済ませると、見慣れたテーブルに案内されたのだが、そこに驚きの光景を発見する。 「こんばんは、初めまして尾関陽平です・・・・・・ってウソでしょ。」 なんとそこにいたのは梨香だった。 「こんばんは、初めまして佐々木梨香といいます。よろしくね。」 「・・・・・。」 即座の対応に困った陽平はしばらく言葉が出なかったのだが、もう一人の男性パートナーに声をかけられて、我を取り戻した。 「あらためまして、尾関陽平です。」 自分でもわかるほど、声が震えていた。 そんな陽平の様子を見てみぬフリをする梨香だった。まるで今日初めて会ったかのごとき陽平に振る舞い、ときおり会社では見せたことのないような恥じらいのそぶりまで見せ付ける。「女というものは恐ろしい」そのとき陽平はきっとそう思ったことだろう。 やがてツーショットタイムのときが来ると、もう一人の男性パートナーと女性ーパートナーがスッと席を立ち、カウンターの奥へと消えて行った。自然、取り残されたのは陽平と梨香である。 「へっへー、やっと二人きりになれましたね。さっきの男の人にもう一人の彼女のいいところを散々吹き込んでやったから、きっと彼女の方に行くやろなとおもてましたわ。」 ああ、そんなところまで梨香の作戦が練られていたとは知らなかった。そもそも、どうしてここにいるのかを訪ねたら、 「加藤さんの旦那さんの会員証が見つかって、昨日の帰り際にもらいましてん。ほんでね、尾関さん、きっと行くからって教えてもらったから、物は試しに来てみたんですけど、ホンマにグッドタイミングでいたはったから、ウチもビックリしました。」 「はあ。」 それはもう溜息しか出なかった。その様子を不思議そうに見ていた梨香であったが、とりあえず陽平とのツーショットタイムにご機嫌な様子ではあった。 「まさかいきなり会えるとは思いませんでした。」 「ボクもビックリしたわ。」 「ねえ、これも運命のひとつやと思いませんか?」 「うん?もしかしてボクでもええかな、なんて思い始めてる?今から立候補したら、少しばかり年の離れた恋人になれる?」 陽平としては冗談のつもりで言い出したことなのだが、 「尾関さんが本気やったら、ウチも本気で考えますけど。今度のお弁当合戦も結構本気なんですよ。ウチだけやのうて瑞穂まで。」 「まさかやろ?からかうだけからかって、やっぱしなって言うねやろ?」 「そう思うねやったら、いっぺん本気になってもらえます?」 そういうと梨香は陽平の手を握り、自らの胸元に導いた。 梨香の胸も悪くはない。おっぱい好きの陽平には不足のない大きさなのである。思わずゴクリと唾を飲み込む陽平であったが、慌ててその手を引っ込めた。 すると梨香は淋しそうな目をして、 「ウチではダメなんですか?」 「い、いや。今日の梨香ちゃんはどうかしてるんやって。この店の雰囲気に飲み込まれて、いつもの冷静さを失ってるんちゃう?」 「ウチ、尾関さんのことが本気で好きかも。このままどっかへ連れてってもらってもかまいませんけど。」 「あのな、ここのルール加藤さんから聞いた?二回以上会わへんかったら、連絡も取ったらアカンねんで。」 「連絡先なんか、もう知ってますやん。ケータイも、住所もわかりますよ。ウチの仕事、総務課とのやりとりですよ。」 「そういう問題やないけどな。」 「とりあえず、どっかへ行きましょ。もう、他の人と会わんでも構いませんし。」 なんと健気な目をしているのだろう。何かを訴えかけている梨香の目にはキラキラと光るものが映っていた。 「ほんなら表で待っててあげるから。せめてもうワンセットだけツーショットタイムを過ごしてから出ておいで。ボクは用事を思い出したっていうことにして外に出るから。」 「はい。」 陽平にとってはとにかく梨香の気持ちを落ち着かせなければならないと思った。それにはこの店ではなく、別の店に移動する方がよいと思ったのである。 梨香とのツーショットタイムが終わると、陽平は急用を思い出したとして店を出た。そして近所にあるコンビニで幾らかの時間を過ごしていたのだが、およそ三十分後に梨香が出てきた。 「おまたせ。ほんで、どこに連れ込んでくれるんですか?」 「これこれ、人聞きの悪い言い方するんやない。そこの喫茶店に行くだけや。」 「なんやつまらん。」 口を尖らせたままの梨香を無理やり喫茶店に押し込み、店内の隅っこにある二人がけのテーブルを確保して冷たい飲み物を注文する。 「あんまり急な展開で気持ちの整理がつかんねんけど、今日のところは素直にお帰り。」 「せっかくここまで来てですか。なんで加藤さんが今日行っておいでってウチに教えてくれたと思います?ちゃんと加藤さんに相談したんです。ここんとこ瑞穂と競争するようになってからずっと尾関さんのことが気になって。加藤さんもウチを応援してくれるって言ってくれて。ほんで・・・・・。」 「わかった。梨香ちゃんの気持ちはありがたい。せやけど、無茶したらあかん。」 その後で次の言葉を飲み込んだ。今自分が失恋したばかりであるということを。それは加藤女史だけが知っていることであり、梨香には知らさずともよいことなのである。 そう、琴音が言っていた「知らなくてもいいことは知りたくなかった」という言葉を思い出したのである。 「加藤さんがなんで尾関さんのお弁当の好みがわかるのか、あとで教えてもらいました。普段の尾関さんをよく知ってる店に行かなあかんかったんですね。瑞穂は結局行かんかったみたいやけど、ウチは行きました。ほんで色々聞きました。先週のウチのお弁当、美味しかったでしょ。ちゃんと聞いてきたんですよ。尾関さんが普段何を好んで食べたはんのか。」 「うん、あれはちょっとビックリした。牛のケチャップ炒めなんて、普通はないもんな。」 「あとはウズラ卵のフライでしょ、それに生ピーマンのサラダでしょ、他には炙りたらこって言うてたかな。」 「すごいな。しかもメモってるの結構マニアックなもんばっかりやな。」 「瑞穂との差をつけなあかんからな。」 陽平は素直に、その健気なところがかわいいと思った。しかし陽平と梨香とでは十歳ほど年が離れている。琴音よりも寧々の方に年齢的が近い。若い女性はそれだけで魅力的ではあるが、何よりも琴音とのことがあった今は、もう一度自分を見つめ直す必要があった。今すぐ梨香に飛びつくわけにはいかないのだ。まず陽平は自分自身を落ち着かせて、次いで梨香にも言い含めた。 「このことは加藤さんしか知らんねやろ。ほんなら三人だけの秘密や。」 梨香は黙ってうなずいた。 「ボクは来週の金曜日も夏季休暇とらなアカンねん。梨香も休み取れる?まずは二人でお出かけしてみよか。それでもう一回ちゃんとボクのこと判断してくれたらええんちゃうかな。ボクも梨香ちゃんのことちゃんと見るから。」 「うん。」 この作戦は梨香の乙女心を刺激した。 女は「秘密」という言葉が好きなのである。 そして二人は健全なデートから交際をスタートすることになる。
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