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吹田は黙って立っている自分の姿が黒田の心に楔を打ち込んでいることを知らない。
とうに失った存在が燻りだす。かつての自分と、愛おしい存在は今はもうなく、吹田の姿にその残像を見てしまうたび、黒田の心は狼狽えるのだ。
「あなたの気持ちは丸見えです」そう言って手を差し出した先に起こること。それは楽しい事よりも苦痛を生み、与えるのは恐怖と嫌悪しかない。それは同じだけ黒田に跳ね返り、更なる後悔を生み出すだけだ。
『何も知らずにいれば、ただの失恋で終わるのだから……それが一番いい方法だ』黒田はそっと心のなかで呟く。かつてそう言うと決めたのに言えなかった言葉を。
吹田はフウと一つ息をつき、しっかりと黒田を見詰めた。表面が溶けてしまうのではないか。そんな心配をしてしまう程にゆらゆらと揺れる瞳。
心を映し出す鏡は二つの瞳。自分ともう一人の自分両方に突き刺さる視線。平然と見返しながら、黒田の心は悲鳴を上げる。研ぎあげた切れ味のいいナイフでスパっと横に切り付けられたようなその感覚は、黒田が最も嫌だと感じるものだ。切る側であれば問題はない、しかし自分が切られることは負けたことになり失敗というおまけが付いてくる。そして黒田は生きる場所を失うことになる。それはもっとも避けるべき事だった。
この世界に居座り続けることが、再び繋がる切っ掛けになるかもしれない。そんなかすかな希望も長い年月の為か少しずつおぼろげになりつつあった。
「来月も伺います。コーヒーご馳走様でした」
吹田は14回目の同じ言葉を残して出ていく。
カランカラン
何時もと同じ、キャトルのガタガタした音と共に消えていった。黒田が忘れたいと願っているのに、結局は忘れることを嫌がっている事を自覚する「残像」――それを残して吹田は消えていく。
しかし黒田の心は血を流さない。流すような人間であったのはとうの昔……そう、昔のことだ。
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