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――他集落の人間か……?
辛うじてそう推測する。だが、厚い氷と雪に覆われたエルカ渓谷に、残存している集落などあるのだろうか。かつて、いくつも存在していたとされる集落のほとんどは、このエルカ渓谷を捨て遠方の地へ逃げたのだと村長が言っていた。
ククロウの住まう集落ですら、日々生きていくだけで精一杯の暮らし。他集落の人間であればとうに殺され、金目の物や食料を奪われていたことだろう。鈍色の憶測ばかりが、ククロウの頭の中をグルグルと駆け巡る。隙をみて応戦するべきか、そんな考えが過ぎったその時、
「我は、白闇の主」
長い沈黙を破って告げられた言葉に、ククロウは大きく瞳を見開いた。
「白闇の、主……?」
――まさか……。
それは、安易に口にしてはならない禁忌の言葉。
ククロウが住む集落の大人達が昔から恐れ敬い、そして信仰をしてきた人物であった。
決められた『約束の日』以外には、ほとんど耳にしないその名称――。
「〝贄の王〟がなんで……」
「…………」
ククロウの唇から漏れ出た、言葉の欠片。
刹那、空気が一瞬震え、騒めいた気がした。
光る水面越しに見える主の影。それは無言のまま、微動だにしない。顔のほとんどを純白のローブが覆い隠しているせいで、表情を読むことすら叶わない筈。なのに――。
「…………」
無言を貫き通す白闇の主は、こちらを鋭く睨んでいるように思えた。
――殺される……。
今にも、切り殺さんばかりの威圧感。
冷たい掌に心臓を鷲掴みにされるような、嫌な汗が噴き出すのを感じる。
腰に提げたナイフの柄に触れることすら出来ずに、死を覚悟したその時だった。
「え……?」
音もなく、首筋に添えられていた白銀の刀身がゆっくりと後ろに引かれていく。
そしてキンと澄んだ金属音の名残を響かせ、純白のローブの中へと刀身が消えていった。
「……ッ!」
安堵したのも束の間のことだった。
次の瞬間、ククロウは見えない何者かの力によって後ろに引っ張られた。襟首が掴まれ、首が絞まる感覚に呻きながらも半ば無理矢理、地面に這い蹲る。加えて、不可視の重圧が背中へと圧しかかり、息をすることすらままならなくなった。
「けほ……っ、う、……ぐ」
胸を潰す圧迫感。酸素が体外へと押し出され、次第に景色が朧気になってゆく。
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