春のひとひら

14/23
前へ
/24ページ
次へ
「遠くから撃ちよったけん、見えんかったたい。敵影が見えたとしても、ほんに米粒のごと小さかったけんな。たいがいは敵の姿すら見えんかった。おれたちは前線で戦いよったわけやなかったけん。敵に会うのはまれなことやった。とにかく行軍。昨日も行軍。明くる日も行軍。歩いて歩いて、軍靴がすり減って、水筒の水は無くなって、のどが渇き果てても歩かないかんかったけんな」  空気をつかんだときのように何の手ごたえもない答えだった。私はおじいちゃんをにらむでもなく、ただ呆気にとられておじいちゃんが入れ歯もない口で話し続けているのを聞き流していた。 「……八月の二十一日、いまでもようと覚えとる。アメリカ軍の飛行機が、おれらが歩きよるちょうど真上に飛んできた。敵襲! そう上官が言うて、おれたちは反射的に身体を低くした。じゃが、飛行機から落ちてきたんは爆弾やなくて、大量の紙切れやった。戦争は終わった。もう日本はアメリカに投降したけん、あなたがたも帰国しなさい。そういう文面じゃった。  それば見たとき、誰も彼れも身体じゅうの力が抜けてしもうとった。陛下はどげんなされたんやろう、誰かが訊いた。陛下も降られたごたる。ちゃんとここに書いとる。帰ってもよかっちゃなかか? 隊の中で一番頭のよか男が言った。みんながその紙切れに集まった。偽物やなかか? 敵の策略かもしれん。誰かがそれに反論した。頭のよか男は首をふった。ようと考えてみらんか。前線の連中ならともかくおれたちをたばかって何になる。これは本物たい。     
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加