春のひとひら

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 たぶん四歳か五歳くらいの物心つかないころだったと思う。おじいちゃんが、そのころの私の顔くらいあった大きなクモをハエたたきでたたき殺したことがある。そのまえに、私が早く殺して、殺してと泣き喚いていて、おじいちゃんはただそのとおりにしたなのだけれど、私のお願いが聞こえてから、ハエたたきを振りあげて振り下ろすまでまるで躊躇がなかった。すぐにそのクモは薄く、平べったくなり、八本の足は抜け落ち、内臓が透明な汁とともに飛び散った。おじいちゃんは家の柱にくっついたままになっているクモを平然と眺め、ハエたたきを左手に持ち替えて、右手で私の頭をなでた。それから震えている私を見ながら、怖がらんでいい。もう大丈夫やけんな、と笑った。私は薄くうなずいたけど、本当にそのとき怖かったのは目の前にあるクモ、あるいはクモであったものではなく、初めて目にした生き物の死であり、ほんの数秒前まで素早く縦横無尽に動き、私を脅か していたものが、人間のわずかな行為ひとつでいとも簡単に動かなくなってしまうという事実だったように思う。いや、もしかすると私はその行為者であるおじいちゃんに恐れを感じていたのかもしれない。いつも私をかわいがってくれているおじいちゃんの普段はまったく見せない形相に、クモを見たとき以上におびえていたのかもしれない。そのとき刻みつけられたトラウマは私が大きくなってからも尾をひき、おじいちゃんがカメムシやゴキブリやカブトムシを殺そうとするたび、その酷薄さを思い出すと胸が高鳴り、嘆き、そしてわずかに軽蔑するのだった。  そんなわけで、人殺しの思い出をうれしそうに話しているおじいちゃんの話を、私はどちらかというと冷めた気持ちで聞いていたのだけれど、あきれるほど鈍いおじいちゃんがそのことに気づくはずもなく、立て板に水を流すようにとうとうとしゃべり続けていた。     
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