第十一章

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第十一章

誰もあたしを知らない。 それが、あたしの気持ちを軽くした。 誰に囚われる事なく、新しい生活を始め、死にたいと思っていた自分を忘れた。 …少しだけ、以前住 んでいた街と似ている。 マンションの前には川。 土手沿いにきれいな遊歩道。 …仕方ない。 あの時間を忘れないためじゃなく、この景色が好きだからだ。 慎ましい生活を心掛けた。 規則正しく、節約も欠かさない。 そして何より…自分を大切にした。 節約はしても、無理な我慢はしない。 全てにおいて、穏やかな気持ちでいようと思った。 実際…自分を愛せばどうにでもなるものなのだと、あたしは気付いた。 「沢田さん、今日のアレンジも素敵ねぇ。」 「ありがとうございます。」 やっぱり花と関わる仕事からは離れられなかった。 もう仕事は選べないと思っていたけれど…あたしは自分の『女』を使わず、実力で仕事を得たかった。 花屋で働きながら、フラワーアレンジメントの教室もしている。 「調子どう?もう出産日近いでしょう?」 「ええ。暴れて大変なんです。」 お腹を触る。 あたしは、妊娠している。 来月出産予定だ。 妊娠に気付いた時、あたしは全てを捨てる覚悟ができた。 あたしの血を分けた子供が生まれる。 一度、亮太との間にできた命は、生まれる事を拒否したのか…産まれてはくれなかった。 そんな思い、させないためにも…あたしは自分を大事にしなくてはならないと思った。 自分を愛せば、きっとこの命も生まれて来たいと思ってくれるはず。 死にたいと思い続けていたあたしを、生かしてくれた存在。 大事にしたい。 「お疲れ様でした。」 お店と教室は中心地にある。 バスに乗って、少し手前のバス停で下りて、のんびり歩く。 景色を見ながら、色や匂いを感じながら。 この年になって感じる…生きる事の素晴らしさ。 命って、不思議だ。 …あたしの血を分けた子供…なんて。 本当は、エゴに過ぎない。 あたしはあの時強く願った。 子供が欲しい、と。 だけど、産まれて来る子供には父親がいない。 …本当に自分勝手なあたし。 あたしの愛だけで育てる。なんて、綺麗ごとにできない。 子供にも感情は育つ。 いつか、自分の父親について考え、知りたくなるに違いない。 だけど…許して。 今、あなたを必要としてるあたしを。 許して。
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