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マンションの前に着くころ、雨はまた降り始めていた。奏の家とは階数が違うから、エレベーターでいつものように別れる。
「おかえり」
部屋の扉を開けると、真っ暗な中で母親が座っていた。電気くらいつけたら、と言いそうになるが、男の人と会った後は何が引き金になるか分からない。
「ただいま」
それだけ返して、自室へと進む。ばん、と何かが当たる音がした。壁に向かって投げられた鞄がずるりと落ちる。振り返ると、充血した目でこちらを睨んでいる。
「親の顔も見られないようなことをしてきたの?」
雨は、もう降らないはずだった。
「あのね、お母さん」
一緒でいられたら良かった。貧乏で、ばかで、何もかもを周囲のせいにして、泣き伏せていられれば良かった。
「セックスなんかしなくても、話してるだけで、幸せなこともあるんだよ。お母さんはそうじゃないから、私が産まれたんだろうけど」
それでも、私はもう知ってしまった。この人が得られずにここまで来た、深く呼吸をする方法を。誰かの優しさを思い出す術を。
ぱん。頬を強く打たれる。よろけることもせず、泣き崩れる母親をただ見下ろす。新しい男も、きっと酷い人だった。弱い人は、酷い人しか選べない。その事実が認められなくて、分かりやすい原因に当たり散らすしかない。そんなことにも気づけずに、私もただ泣いたり吐いたりしていたかった。けれど、別れの時は近づいていた。未熟な自分に。誰よりも弱い、この人に。
「あんたなんか、産むんじゃなかった…」
「そうだね。そうできたら、一番良かったね」
自分でも驚くほどの冷たい声に、母親は息を呑んで顔を上げた。幾度となくぶつけられてきた言葉だ。そう言えば私が泣いて謝ると、この人は今日まで思い込んできた。
「みなと、違うの…」
「何も違わないよ」
違うの、ごめんなさい、と泣き出したのは母親の方だった。この人が、いつか誰かに救われる時は来るのだろうか。どんどん冷えて行く頭の片隅で、私は明日の時間割を考えていた。
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