母が死んだ。

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 院長は僕を見つけると、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。ちょこまかした走り方のせいもあって、まるである種の愛玩動物のようだった。彼女は両手を差し出し、僕は握りかえした。その手は思った通り、マシュマロのように柔らかだった。 「お母様のことはお気の毒でした」と彼女は言った。僕はうなずき返した。「もしかしたら、来て下さらないのではないかと心配していました」と彼女は付け加えた。 「事情がお有りとは言え、お母様はあなたを捨てたのですから」  僕は黙ってうなずいた。  死の知らせは、僕にとって六年ぶりに聞く母のニュースだった。つまり、彼女が僕の人生から、唐突に消え失せて、それだけの歳月が流れたことになる。  ただ、彼女を酷く怨んでいたりはしなかった。もちろん、葛藤がなかったわけでない。けれども、それは今は済んだ話だ。  少なくとも、安手のドラマによくあるように「なぜ捨てた」と叫んでみせたりするような、愁嘆場を演じるつもりは更々なかった。  むしろ、僕が気にしていたのはその逆だった。例えば僕が来なかったなら、ここの人たちは僕が母を許していないのだとか、そういう風に解釈するに違いない。たった今、院長が口にしたように。     
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