2人が本棚に入れています
本棚に追加
3
それから、あの男の姿を見たことはない。
でも中華料理店の3カ月後くらいに、一度だけ店にやってきた。
まあ、おずおずとした様子で。
彼は、相も変わらず深夜にやってきて
「あの、コーヒーを」と言った。
私は「はい」とだけ答えた。
男は私を見るのも忌々しそうにしていたので、
「あの、お客さん。今夜コーヒーを飲んだら、きっと嘘しか言えなくなっちゃいますよ」
と冗談交じりに伝えた。
男は何を言っているのか、さっぱりピンとこない様子で、
「この女、またおれに恥をかかせるつもりだな?」
とでも感じたらしく、まるで取り合わない、といったふうを装って
「コーヒーお願いします」
と語気を強めて言った。
嘘しか言えなくなるコーヒー。
果たして、その効果はあったらしく、お勘定の際、彼は例によってピントの合わない、不思議そうな表情を浮かべて、最後にはにかんだ顔をして「ありがとう。おいしかった」と私に伝えた。瞬間、体のバランスを失った彼は私に覆いかぶさる一歩手前の姿勢になった。緊張して呼吸を止めている彼の唇に、私は自らキスをした。
そう、私が出したコーヒーはアイリッシュ・コーヒー。
口づけを交わした後、彼はやっと自身にふさわしい笑顔を見せると、ゆっくりと店を後にした。
また来るかな?
それとも、もう来ないかな?
不気味な男。
でも生きていてほしい。
その夜のことは、友達にも彼にも誰にも報告したくなかった。
最初のコメントを投稿しよう!