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 自分と同じの顔をした……けれども、人とは到底思えないような異常な力を振るい、おぞましい行為を行なった邪悪な存在と対面した瞬間、俺は死を覚悟した。  まるで、大きく開かれた狼の口の中に、これから自分の息の根を止めるであろう凶悪な牙を見つけてしまった憐れな羊のように。或いは、死刑の瞬間を檻の中で待つ囚人のように。  ああ、俺は間もなく死ぬんだ、と。奇跡が起こらない限り、俺に助かる術はないのだ、と静かに生を諦めた。  しかし、俺の予想はどうやら外れたようだ。  "それ"の前で、俺はいつの間にか意識を失ってしまったらしい。次に目覚めた時には、車内ではなく、自宅付近の公園のベンチで横になっていた。  ――もしかしたら、あの惨劇はただの夢だったのかも。  そんな淡い期待を抱いたが、自宅に帰る道すがら、カーブミラーに映る自分の口元に血がこびり付いているのを見止めた時、あの惨劇は現実のものなのだと思い知った。  そして、赤黒い汚れを見て、思い出したことがひとつある。  あの車の中で、意識を失う前――俺の顔をした"それ"と対峙した時のことだ。 〈お前はもう、人じゃないんだぜ〉  鋭い牙を剥き出しにして、"それ"はニタリと笑う。 〈今からちょっとばかし前、お前の心臓にオレの――悪魔の種を埋め込んでやったのさ。わかんなかったろ? なにせお前は、街でオレに体当たりをかました後、オレの気に当てられてオネンネしちまったからな〉  "それ"の言うことは、正直、理解できない。  だが、街でなにかと衝突した後の記憶がないのは、どうもコイツのせいらしい。 〈種は宿主であるお前と一体化し、やがてお前を悪魔へと転化させる。喜べよ、新たなお前の誕生だ〉 「……どうして俺に?」 〈コイツら――悪魔信仰の連中に、オレの眷属を寄越すよう頼まれちまってさ。丁度、お前がぶつかってきたから、これ幸い、とな〉 「なんで、コイツらを襲った? お仲間じゃないのかよ?」 〈仲間? まさか。ヤったのは気紛れだよ、気紛れ〉 「どうかしてる」  コイツの言い分が本当ならば、俺も、俺を攫った男達も、ただの気紛れで悪魔の餌食となってしまったわけか。  理屈や常識のまかり通らない不条理があることを、こんな形で知らしめられるとは思わなかった。  ……そんな理由で、人間である自分とさよならしなくちゃいけないのかよ、俺は。 〈ほら、窮屈な人の殻なんかさっさと捨てて、悪魔として目覚めろよ、相棒〉  悪魔は妖艶な色気を匂わせる赤い瞳に俺の姿を映し、いやらしい笑みをその唇に刻みながら、己の手首を鋭く長い爪で切り裂いた。  漆黒の手首に深紅の線が引かれたと思ったら、血が瞬く間に裂傷から溢れてパタパタと滴り、その手首やシートを紅く濡らす。 〈ほうら、甘美な御馳走をたんとおあがりよ、坊や〉  粘っこい口調でそう告げたかと思えば、"それ"は問答無用で血の滴る手首を俺の口に押し付ける。  どうして俺がこんな目に、とか、これからどうなってしまうのか、とか――そんなことはどうでも良いんだ。  ただ一つ、心残りがある。 (日音)  再び遠のいていく意識の中、俺はその人を心の中で呼んだ。
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