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「もう! 伸ちゃんってば! あんなことオフィスで送らないでよ」
「ごめんごめん」
全然悪いと思っていない声の調子と、そのにこやかな顔。
家に来るなり私に色々言われているのに、伸ちゃんはオフィスのときと同じように肩を揺らして笑っている。
「会えるって思ったら嬉しくなっちゃってさ」
「あのあと、美紀ちゃんに色々突っ込まれたんだから」
「ごめんって」
翔くんとの約束がなくなった私に、ご飯を食べに行こうと提案してくれた伸ちゃん。
家に迎えにいくから先に帰っててと言われた私は、伸ちゃんを出迎えながら、こうしてさっきの文句を言っている。
そんな私に、伸ちゃんは優しく微笑んで私の髪をゆっくりと撫でる。
「今日の食事、ここからタクシーで十分くらいかな。席取れたのが、八時なんだ」
「……予約、してくれたの?」
「すみれの誕生日なんだよ。素敵なところに連れて行かせてよ」
伸ちゃんは鬼の坂口って会社では言われているらしいけど、プライベートはとっても甘い人。
いつだって私を甘やかして、慰めて、癒してくれる。
その胸に抱き着いて、きゅっと掴まれば背中を撫でて応えてくれる。
「なにそれ。可愛いんだけど」
「だって……嬉しいから」
「すみれちゃん? そんなにくっつかれちゃうと、俺困っちゃうんだけどな」
「うん」
「こら、我慢できなくなるでしょ」
「……我慢、しなきゃダメ?」
「……まったく」
途端に色気を含んだ声が頭上から降ってくる。
「……困ったお姫様だね」
私の頬に触れていた手がゆっくりと動いて、唇をなぞる。
その動きに身体の奥が震えるように反応した。
「少しだけ……ね?」
答える間もなく、口角の上がった形のいい唇が降りてきて、私の唇を塞ぐ。
少し開けた唇の隙間から、柔らかい舌が入り込んできて、わたしの舌先に触れた。
「誕生日おめでとう、すみれ」
誰も知らない。
美紀ちゃんも。
第三営業部の人たちも。
鬼の坂口と言われるこのヒトが、その低い声でどれだけ甘い言葉を囁くのか。
どれだけ優しく身体に触れるのか。
みんな、知らない。
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