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『敬吾さん』
「んー」
『ちょっと胸の辺り撫でてみて下さい』
「………………、……………あん?」
『あっいや違う違う!!変な意味じゃなくてね!!!』
それは先日二度としないとしこたま叱られたばかりだ。
携帯に頭でも下げかねない勢いで逸が続ける。
『息詰まってんじゃないかなと思って!疲れると呼吸が浅くなるでしょ』
「ああ、まあ……」
『胸とか肩とか、撫でたら少し楽かなって』
ーー本当は、自分がそうしてやりたいだけだ。肩を抱いて頭を撫でてキスして、背中を摩ってやりたい。
微かな衣ずれの音と敬吾のため息のような呼吸に、逸は切なく瞳を閉じる。
とりあえず言われたようにしてみた敬吾は、すっと呼吸が楽になったこと、そして自分の手の意外な温かさに驚いていた。自分の体温など普段そんなに意識するものではない。
『……ほんとだ。結構違うな』
「でしょう」
側にいれば半ば強制的に施されるマッサージやスキンシップにはこういう側面もあったのだろうか。
逸が側にいないことは、その空白に耐えるのみと思っていたがーーあの瞳と同じように自分を見なければならないのかも知れないと敬吾は思う。
その存在だけではなくて、自分を労る視線も側から消えていたのだ。
「……もうちょい体気ぃ付ける」
何かあってからでは心配をかけるどころの騒ぎではなくなってしまう。
『お!そうしてください!』
本当に嬉しそうにそう言って、『早く帰れるようにしますね』と逸は続ける。
そうなれば嬉しいが、敬吾は「空回りすんなよ」とだけ返しておいた。逸は笑っている。
『飯困ったらとりあえずきのこ類とトマトでも買って下さいね、きのこ冷凍できるし最悪手でちぎって使えますから』
「あー、なるほどな」
『トマトは丸かじりでいいし。やばそうになったら冷凍しといてスープにでもして下さい』
「分かった」
『あとはーー』
「ぶふっ……大丈夫だって!今大分落ち着いて来てっから。ちゃんと食ってるよ」
『ほんとですか?』
心配そうな逸の声に笑い、敬吾は有り難いのはもちろんだがと前置きする。
「俺のことばっか心配してねーで、お前も体気をつけろよ。仕事も……社長相変わらず曲者なんだろ」
『うー、はい』
もどかしそうに唸る逸に、敬吾はふっと微笑んだ。
「……焦んなくていいから。しっかりやってこい」
『……はい』
ーーしっとりとした敬吾の声が、愛おしく温かくて、肩の力が抜ける。
そうしてその言葉を、一ヶ月後またしみじみ思い返すことになるのだったーー。
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