第一章 春は憂鬱の香り

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 取りまとめ役が呼び掛けても、誰もうんともすんとも言わない。その空気を読むわけではないが、私も手をあげようとしなかった。なぜなら、ピアノの奏者になると毎日の放課後練習のために居残りしなければいけなくなる。そんな事をしてしまうと、一日の内にレッスンを受けられる時間が減り……お母さんが、火を噴くように怒るのだ。今までだってそう、ピアノのレッスンがある日は寄り道も友達と遊びに行くのも、すべて禁止。お母さんの怒鳴り声を聞くのも嫌になってしまった私は、いつしか従順に言う事を聞くようになってしまった。 「だれでもいいからさ、ピアノ弾ける人手あげてよ」  お母さんを必要以上怒らせたくない私は、その言葉を聞かないふりをする。……ピアノなんて、弾けないふりをする。それに、一度でもピアノが弾けるという事がばれてしまうと、三年間ずっとピアノ奏者を押し付けられそうだ。 「あっれ~、相沢さんって確かピアノ習ってなかった?」  それなのに、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできた。ハッと顔をあげると、教室の後ろの方に座っていた新田さんが、いじわるそうな笑みを浮かべながら私を見る。 「そうなの、杏奈」 「そう! あたし相沢さんと中学一緒だったからよく知ってる。確かコンクールに入賞したこともあるって聞いたけど……」 「本当なの?」  クラスメイト全員のぎょろっとした目玉が、すべて私を見つめる。その視線の中には「アイツ、わざと手あげなかったんじゃないか」という蔑んだものも含まれているような気がした。 「本当、です」  蚊の鳴くような小さな声なのに、この時ばかりは教室中に響き渡る。 「何だ、弾けるヤツいたんじゃん! じゃあ、相沢さんにお願いしてもいい?」     
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