第一章 春は憂鬱の香り

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「樹里ちゃん、いらっしゃい」  ここに来れば、いつも通りの優しい笑顔で春恵さんが出迎えてくれる。それだけなのに、心に溜まっていた澱んだ空気がほっと抜けていくのを感じていた。 「あら、顔色悪いけど……風邪でも引いたかしら?」 「ううん、そういう訳じゃないの。……オルガン、借りていい?」 「どうぞ。樹里ちゃんが弾いてくれるなら大歓迎」  私はカバンや腕時計を床に放り投げて、オルガンの前に座る。私が来ていることに気づいた常連の子どもたちが、わらわらと近づいてきていることが分かった。……今日は、今日だけは、この子たちに優しさを向けることは出来そうにない。私は金づちを打ち付けるように、鍵盤を強く叩き始めていた。今の気持ちを表す音楽……そんなもの、この世界にはないのかもしれない。それでも私は、この荒ぶった感情を、ショパンの『革命のエチュード』に乗せた。激しい音符の羅列が、【子ども図書館】の中を目まぐるしく走り回る。弾き終えた時にあったのは、呆気にとられた子どもたちの表情と、ニコニコ笑いながら拍手をする春恵さんの姿だった。 「樹里ちゃんすっご~い! 私も早く、そんな難しい曲弾けるようになりたいわ」 「……こんなの、大したことないし」     
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