第一章 春は憂鬱の香り

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 子どもたちが口々に、「弾いて」「弾いて」と繰り返す。そのリクエストに応えるように、私は腕時計を外し、少しだけ腕まくりをしてオルガンの蓋を開けた。まだ新しい建物である【子ども図書館】とはまた違う、古ぼけた香り。それは、このオルガンが長い間ずっと大事にされてきた匂いだった。私は柔らかく鍵盤に手を乗せる。リクエストも聞かずに、そのまま音を紡ぎ始める。ねこふんじゃった、幸せなら手を叩こう……メジャーな童謡ばかり奏でていくけれど、子どもたちは楽しそうに聞いてくれている。その様子を見ていると、どうしても寂しくなってしまう。心のどこかで息を潜めている、音楽を楽しんでいない自分が炙り出されているような気がして。  ここのところのレッスンと言えば、自分が引きたい曲ではなくってお母さんから渡された楽譜を、お母さんが好きになってくれるように、褒めてもらえるように音符をただなぞるような単純作業。同じようにピアノを弾けるならば、私じゃなくてロボットでもいいんじゃないかと思えるくらい。だから家に帰ってピアノに向かい合う時間は憂鬱以外の何物でもない。  どんよりと気持ちが沈んて行くと、それはすぐさま演奏にあらわれる。軽かったはずの鍵盤は重たくなり、少しずつ私が刻むリズムと定められている音楽のそれが乱れ始める。そのずれに過敏なのは子どもたちも同じで、演奏が乱れるたびに一人、また一人と子どもたちが私を取り巻いていた輪から離れていく。弾き終わった頃に傍にいたのは、春恵さんだけだった。春恵さんは、ニコニコ笑いながら拍手をしている。 「スランプ気味?」  その言葉に、私は曖昧に頷いた。春恵さんは「そっかそっか」と、私を慰めるように頷いていた。 「高校、友達できた?」 「全っ然!」  そして、いつも同じようにこうやって人の傷口を広げるような事を言うのだ。 「早くできるといいねぇ」 「そう簡単にいかないよ、私、びびりだから」     
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