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彼は私が発そうとしている言葉をわかっているのか、私と視線を合わせようとせず、落ち着かない素振りで自分の手元に視線を落としていた。
当の私は少し馬鹿らしくなって、手持ち無沙汰にアイスティーをストローで掻き回していた。稼働中の洗濯機に放り込まれている服のように、氷は音を立てて回っている。
空調が効きすぎていて肌寒い。
他の客が話す声が妙に鬱陶しく感じた。
この喫茶店には私たち以外の客も多く、様々な人が談笑しているというのに、彼はまるで他の人の声や風景をフィクション作品のように感じているみたいだった。
私は溜め息を一つ吐く。口から吐き出した二酸化炭素が空気に溶け込み沈んでいくと同時に、もう一度、その言葉を言った。
「だから……別れて欲しいの」
理由は他に好きな男がいるからだ。元々、この男には辟易していた。好みではないが、少し見た目がいいので付き合うことにしたものの、理屈っぽくて細かく面倒くさい。
建前では親友が亡くなった時、傍にいてくれなかったということにしているが、まったくの嘘だ。まぁ、親友――いや、実のところ自分は親友どころか友人だと思ったこともなかったが――とりあえず、知り合いが自殺したと世間で言われているのは事実ではある。
しかし、それによって私が悲しんだことはない。そもそも、私にできた好きな人というのが、その自殺した知り合いの彼氏なのだ。目の前の彼――中村誠と別れる建前もできれば、知り合いの彼氏、いや正確には彼氏だった人を射止めるチャンスができた。私としては一石二鳥である。
初めから彼、目の前のしょぼくれた中村のことではなく、私の好きな彼はあのような女の隣よりも私の隣にいる方がふさわしいはずだ。
だから、私はあの女を――。
「わかった」
そこで現実に引き戻された。中村が、観念したように、覚悟を決めたように、しかし捨てられた子犬みたいな表情でそう言った。
「さよなら」
私が注文したアイスティーのグラスにまとわりつく水滴が天板を濡らす。氷が軽快な音を立てる。それを合図に私は立ち上がりここから去っていった。
私が知り合いである彼女を殺害したという容疑で逮捕されたのは数日後のことだった。
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