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麓の詩季村からは、徒歩で三十分ばかりも離れているから、上の道を誰かが通りかかるのを待って助けを求めるのも難しそうだ。
孫が戻らないことに、果たしていつ頃祖父は気付いてくれるだろうか。
素人考えでは、元のルートに戻らなくても、このまま斜面を下りて行けば、いずれは麓まで辿り着けるような気もするのだが、大人しくここに留まった方が賢明だろうか。
──ここから動かない方がいい。
誰かが、頭の中に直接語りかけてきたような声が聞こえた。
虫の報せと言うやつだろうか。
それとも幻聴か。
「誰か──居ますか?」
問い掛けて、辺りを見回してみるが、もちろん返事はない。
周りの草木は硬質化したかの様に動きを止め、風音すら聞こえない。
山笹や名も知らぬ樹々が背丈ほどの茂みを作り、視界を完全に遮っている。
凶暴な緑色のモンスターに囚われているような気分になった。
そして──。
既視感。
心臓の鼓動が早まるのを感じる。
息が浅くなっているのに気が付いて深呼吸する。
最後に大きく息を吸い、目を瞑りゆっくりと十まで数えて吐き出した。
ようやく心臓も落ち着きを取り戻した。
いつもの発作だった。
小さい頃から、既視感に襲われると心臓の鼓動が速くなり、過呼吸に陥りそうになる。
病院で検査を受けても、心臓の機能に問題はなく、何らかの精神的外傷だろうとの結論だった。
そもそも精神的外傷になるような経験に心当たりなどないのだが──。
この地を訪れるのはかれこれ二〇年ぶりだった。
母が若い時代を過ごした土地、母方の祖父が今も暮らす、詩季村。
小学校に上がる少し前に父に連れられて訪れている。
既に物心は付いていたと思うのだが、その時の記憶は何故かひどく曖昧で、殆ど残っていない。
祖父の家のネコを抱き抱えて、どこか怯えたような不機嫌な表情で撮られた写真が何枚か残っているが、何故そんな顔をしているのかもさっぱり分からない。
よほど嫌なことでもあったのだろう。
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