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そしてやや気だるげに顔をあげた彼はわたしの方へ――正直わたしを見た、と言っても罰は当たらない気がするが、あくまでもわたしのいる方向へ視線を流した。それは何の意図もはらんでいない動きであったが、わたしにとっては合図だった。目ざとく察してしまったわたしと、うちに潜む倦んだ淀みを悟られてしまった彼とのあいだに秘密がうまれた合図だった。そう思ったからわたしは気になるあいつを好きになったのだろう。たとえばわたしが江國香織の小説の登場人物であったら、恋はするものではなく落ちるものだと宣言しただろう。それくらい、その感情は実体を持った「好き」であった。でもわたしは大人になっても夜中にジャムを煮ることはしない地味なOLなので、落ちるというよりは引きずり込まれたような気がした。恋ではないけれど、恋に付随する感情を取り揃えた何かへ。
皿にのったお好み焼きを電子レンジから取り出しながら、冷凍お好み焼きだからこそ再現できるその完璧なその丸さに恍惚のため息を漏らした。世に蔓延って行き交う恋愛感情というものをこの冷凍お好み焼きの完璧な円とするなら、わたしの彼に対する感情は、普段は自炊しないOLが必死でつくったでこぼこの、丸いというより四角の方に近いお好み焼きの形であろう。何の意味もなければ、誰も救えない雑感である。どれだけキャベツが飛び出していようが、もう整えようがないいびつな形をしていようが、恋によって引き出される1つ1つの泥臭い感情はうまれてしまうものだった。だから困るのだ。それは、やれやれ、と肩を竦めて打ち消せるほどでも、ひたすらに夜中にジャムを煮ることで消化できるものでもなかった。
だから会いに行くしかなかった。彼の注意を2秒でも惹きつけた女に嫉妬を燃やしながらも、わたしの持つ価値のあるもの全てをつぎ込んで、可能な限り近くへ行くしかなかった。彼を視界に収めることでしか、そして彼の視界にわたしがいることを信じもしない神にひそやかな願いを捧げることでしか、わたしは自分の感情を発散させることができなかった。
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