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ああ、もう一度、母に会いたい。母の顔を見たいから、そっと目をつむる。瞼の裏で母はいつまでも微笑んでいた。
濡れた思いが静かに脈を打つ。父と真理ほど強くない自分は、限りある時間を指で掬い取って見ても、きっと確かな答えなど掴めない。蛍のように一瞬光った母に倣い、せめて永遠のとなりに泳ぎ着きたい。
知らぬ間に公園は、夜の底に沈む準備を始めている。太陽は思いつめたような表情で空を赤く染め、今日という日に終わりを告げようとしていた。はからずも巻き戻してしまった「時」は、心なしか歪んでいた奈々の片付かない過去に風穴を開けようとしているのかもしれない。
駅のアナウンスで、電車が近づいていることを知らされる。立ち上がって、レールの先を見ると、眩しいほど美しい大気に包み込まれた電車が徐々に大きくなって、風を起こしながら、こちらに向かってくる。どこかで同じ光景に出会った。心の膜が内側からの力で破れる。
なぜなのか、鼻の奥がかすかに熱くなる。洗い流したはずの思い出が鮮やかに色づき出し、空虚感を飼い馴らして生きてきた奈々の、心の一番柔らかな部分に控え目に火をつける。まつ毛にわたる風が心地よい。
ホームに滑り込んだ電車のドアが開く。中にいる見知らぬ人たちの視線を浴び、一瞬戸惑う。奈々を乗せた中央線直通の東京行き電車は、都会の孤独の中を思わせぶりにゆっくり走り出す。おぼろげな未来を手繰り寄せるために、日常の裂け目に一歩踏み出した奈々は、吊り革につかまりながら、幸せの温度を確かめる。
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