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先ほど花見をしていた時、二人は今度少し長い休みが取れたら、一緒に旅行に行こうと約束をしたのだった。忙しい真理が、いつ休みをとれるのかわからない。そして、その時、自分が何をしているのかもわからない。だけど、自分は万難を排して、真理との旅行に出かけるだろう。
真理の車が見えなくなり、一人残された奈々は何だか力が抜けてしまっていた。そんな自分を奮い立たせるように、足に力を入れ、昭和記念公園を出る。出口から西立川駅へは直結した道があり、すぐに駅へ到着した。少し迷ったが、電車に乗る前に父に電話することにする。
「もしもし」
「はい」
仕事をしている最中でもあったのか、相変わらず感情の抜けた、そっけない声であった。
「私ですけど…」
自然とこちらも不愛想になってしまう。
「ああー、で、なんだ」
思わず電話を切ってしまいたくなるが、先ほどの真理との会話を思い出し続けてみる。
「今、真理さんと別れたところ。昭和記念公園の桜、とってもきれいで真理さんも喜んでた」
「そうか、それは良かった」
単純に嬉しそうな声である。どこまで真理のことが好きなんだと、ちょっと嫉妬心が沸き上がる。
「それでね、今更なんだけど、私真理さんが大好き」
「うん、彼女は素晴らしい女性だ」
抑揚のない、淡々とした返事だった。何をわかり切ったことを言うのかという思いなのか。
「でもね、それ以上に、私、お父さんのことが大好きみたい。じゃあ、また行くから、それまで元気でいてね。それから、また映画撮ってください」
そこまで早口で一気に言って、自分のほうからさっさと電話を切った。電話の向こうで父が息をのむ音が聞こえたような気もするが、気のせいかもしれない。
感情の糸をもつれさせていた父と自分の暗く重い過去に、ひとまずアリバイ工作をした。しかし、長い間、心の内に淀んでいた澱を洗い流すことは、決して簡単なことではない。でも、ようやく今日、運命が目配せしてくれたのだから、これからは諦めることなく、父の固く冷え切った心と戦い続けようと決意する。それが、母の愛情を食べ尽くしてしまった奈々が、母のために今できる唯一のことだから。
胸の内を透き通った水のような感情がひたひたと、静かに溢れてくる。
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