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今回は私のほうが仕掛けたんだから、次はお父さんの番よ。でも、本当はもっと大事なことを言いたかった。それは今日は言えなかった。父が何も言わなかったのだから、私のほうからは言えない。
今になって考えると、父は今日奈々が何か大事な話があってくると予感して、敢えて真理を呼んだのではないかとさえ思う。そして、その場で、真理と奈々が実の姉妹であることを告げようと思ったのではないか。しかし、奈々が俊のことを話さなかったように、父も何も言わなかった。業火の中にある熾火のような情念と苦悩に戸惑いながらも、父は父なりに見えない未来を模索しているのかもしれない。
改札口を抜け、ホームに上がる。平日の夕方のせいか、人は少ない。誰もいないベンチを見つけて座る。かすかに街の音が聞こえる。
目の前には、先ほどまで真理といた昭和記念公園が見える。奈々の目は確かに公園をとらえてはいるが、何も見ていない。今日はいろいろなことがありすぎた。考えなければならないこともいっぱいある。父に聞いて問い質さなければならないこともできた。いろいろありすぎて何も考えられない。ただ、ボーッとしている。奈々は、こうした時間が好きだ。
辛いこと、悲しいこと、苦しいことなどがあって、圧し潰されそうになった時、それらをほんのひと時、心の奥底に沈め込み、無になる術を身につけたのだ。これも、奈々が生きていく上で欠かせない知恵のひとつになっている。長い時間は無理だけれど、たとえ一時でも心を自由にすることで、閉塞感から抜け出せる。とても贅沢な時間であるようにさえ思える。誰のものでもない「時間」というものが、この時ばかりは自分のためだけに明確な意志を持って、やさしく包んでくれているような、そう、まるで母親の胎内にいるかのような感覚だ。
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