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Point of No Return -もう後には引けない-(番外編②)
酒の匂いに目眩がする。
俺は慣れたものだ……と席に腰掛けた。
この酒場は小汚い。また地域住民ばかりが集まるせいで、どこもかしこも見知った顔ばかりである。皆一様に酔いどればかりだ……
「よぉ、セス」
すっかり顔が割れている俺の姿を認めた男性客がボタンを開けたシャツへ手を忍ばせる。また別の男は左手を握ってみせた。
無骨で、かさついた手だ。肌がひりつく。
やめろ、触るな。
自分の役割も必要性も分かっている。知っているつもりでいた。だが、今は……なんだよ、少しの休息も許されちゃいないというのか……
素肌をまさぐる不快な感触に、奥歯が鳴る。やめろ。もう一度同じ言葉を絞り出した。
ちょうど、そのときだ。不意に耳鳴りがした。俺も、また周りの男性客たちも思わず顔を顰め、不快感を露にする。咄嗟に何人かが耳を塞ぐ。
だが、程なくして、それがヴァイオリンの音色なのだと思い当たる。キ……ィ………ンと鼓膜を突かれたときにはメロディは疾うに走り出していた。
ハッとした!
弾かれるようにして、前方のステージへ顔を向ける。
男だ――。
黄金の髪が音楽にのって、はらはらと揺れている。男のくせに、いやに長い髪をしていた。年齢は、そう変わらないようだ。
名前も知らない曲は、とにかく凄まじい速さで何かが駆け下りているように感じた。だが何だろう? 不穏な空気だ。やがてその音が虫の羽音に似ていることに気づく。
低い音なのか……? 酒場の客たちは不気味さを覚えた。それ以上に、奏者の速さに驚く。
いや、唖然とした。
男はしきりに左手の指先を動かし続けている。その割に右の手はあまり動きがないようだが……
「蜂だ……」
つい先ほどまで、俺の手を握っていた客が呟いた。あっ、そうか。聞き覚えがあったのは、蜂の羽音を模していたせいだ……
曲が進むごとに想起されるのは、蜂の大軍が上へ下へと飛び回る、あの音だ。
多分、俺の口は開いていた。
その間抜け面を、金髪の男はしっかりと拝んだらしい。――青い瞳がこちらを捕らえて、薔薇色の唇で、ニマッと笑う。
おそろしく、整った顔立ちをしていた。
一分二十秒。わずかな時間で演奏を終えると、男は颯爽と去っていく……
客たちは拍手も忘れ、疾うに誰もいなくなったステージへと慌ててチップをぶん投げ始めていた。
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