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「元樹?!」
両手でそっと金魚を包み込みながら階段を降り、玄関に向かおうとすると、リビングから母さんが血相を変えて飛び出してきた。
「元樹、どうしたの、どこか行くの?!」
追いかけてきて腕を掴もうとする。僕は思わず身を引いた。
「……金魚が、死んだんだ」
そっと手を開いて、手のひらにのせた金魚を見せた。
「また庭に、埋めてやるんだ」
「ああ…庭に…そうね…」
ほっとしたような、がっかりしたようなため息とともに、母さんが頷く。
「…母さんも一緒に行くわ」
そう言って僕の隣でサンダルを履く母さんの頭が、いつのまにか僕の肩の辺りにあった。見下ろしながら、白髪が増えたな、と思う。玄関の扉に伸ばした腕は細くて、手は荒れていた。
あの日。
始業式の朝も、母さんはこうして玄関のドアを開けてくれた。
ふっくらした手で、僕の頭をぽんと叩き、忘れ物ない?と微笑んだ。
大丈夫、とまだほんの少し母さんを見上げる位置から答え、だけど僕はそこから1歩も動けなくなった。
どうしてかはわからない。足が動かない。玄関から外に出ることができない。どうしても動けなくて、始業式を僕は休んだ。
そしてそのまま、学校に行けなくなった。父さんや母さんは僕をいろんな病院やカウンセリングやフリースクールとか何とかに連れていこうとしたけれど、それもだめだった。
家から出られなくなって、あの日から僕はただ、自分の部屋で、金魚の世話だけをして生きていた。
母さんがドアを開ける。
僕はそっと一歩を踏み出した。
外に、出られた。
庭の隅で金魚を埋める。
後ろで母さんが息を詰まらせ、泣いているのがわかった。4年ぶりに日の光の下にいる息子を見て、泣いている。
母さん、ずっと心配かけてごめんね。
「夏休みが終わるまで生きてない」
そう言われた最後の金魚が死んだ。
僕の長い長い夏休みも、やっと、終わる。
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