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「ふぇ?」
「何で今ここにいるんだ、よく考えてみろ。なぁ、優作」
厨房からひょっこり顔を覗かせる津田。話はすべて聞いていたらしい。
「あのときは俺が強引にいろいろ決めてしまって選択肢なんて無かったかもしれない。でも、最終的にここで働くことを決めたのは内海さんだ。君が決めたんだ。初めての場所、初対面の人間、初めてのアルバイト、それでもこうして飛び込めた」
栄真はようやく陽菜子のほっぺたから手を離した。少し赤くなった頬をさすりながら、陽菜子は自分の足元を見つめる。真夜中食堂に立つ自分の足を。
津田が厨房から出てきて二人のもとに歩み寄る。そして陽菜子に言う。
「ちゃんと一歩を踏み出している。だから何も心配することは無いんじゃないか?」
津田の言葉に陽菜子は静かにうなずいた。栄真も諭すように彼女に言う。
「思い出が何にも無い、そんなことも言ったな」
「は、はい」
「でもな、思い出が無くても人は生きていけるぞ。大事なのは今、この瞬間だからな。まぁでも、思い出が人生の糧になるのも事実だ。思い出が欲しいなら作ればいい。いくつになっても思い出は作れるだろ。今までの人生が記憶に残らなかったのならば、今からの人生をそれ以上に濃厚にすればいいんだよ。濃厚な時は嫌でも記憶に焼き付くはずだからな」
「濃厚な時間……」
「一つだけ、これだけは間違いないことがある。この真夜中食堂で過ごす時間は紛れも無く、濃厚な時間じゃないか。こんな変な食堂はそうそう無い。優作もそう思うだろ?」
「ああ、そうだな。多くのお客さんとの触れ合いは、きっと内海さんにとって良い影響を与えるはずだ。それにうちのお客さんの中には幽霊や神様までいる。普通とは違うんだ、これを濃厚な時間じゃないとはさすがに言えないだろ」
二人の言葉はとても優しく温かみにあふれていた。無いなら作ればいい。本当にその通りだ。先ほどまで俯いていた陽菜子の顔が上がる。納得できた、そんな笑みだった。
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