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私もパン屋のお兄さんも、お互いに名前も知らない間柄で。
それなのに、こうして今、言葉では言い表せないような景色を共に見ようとしていて。
「うわぁ……ここに寄ってみて正解だった」
私は木製のテラス席に腰かけて、パン屋のお兄さんが入れてくれた珈琲にミルクだけ入れて飲む。
パン屋のお兄さんは、すぐ傍の柱に立ち、もたれてブラックのまま珈琲を飲む。
そこから見える茜色の時間のその空の景色を見ながら、思ったことが口をついて出る。
「今さっき、そこの橋の手前の信号でこの夕焼け空を見て思ってたんです。この空の美しさを、自分が知ってるだけの言葉じゃ上手く言い表せないから、誰とも正確にこの感動を共有し合えないなって。だから、さっきパン屋のお兄さんがキレイな景色は誰かと実際に共有するべきだって言った時、本当にそうだなって」
こうして話している間にも1ミリずつ、茜空の色は、夜空の色へ向かって変化している。
時間は絶えず動いていて、永遠なんてないんだなって思い知らされる。
柱にもたれて立っているパン屋のお兄さんが、西陽の金色の光に照らされてキラキラしている。
私もきっと、同じ色や光の中にいる。
美しいと思える色を上手く言葉で表現は出来ないけれど、同じ時を共有して過ごせる鏡のような存在の人がいる。
伝えられなくても、ちゃんと伝わっている。
「1年前、父が癌で亡くなる直前にこの景色を見たんです。だからこの景色を見ると哀しくもなるんですけど。でも、ずっと見ていたいんですよね」
そう呟きながら、バナナ形のカステラパンをちぎって口にする。
こし餡の甘さが、口いっぱいに広がっていくのを感じながら夕焼け空を眺めていると、何だか胸がいっぱいになった。
「今日は父をゆっくり思い出したくて、ここに来たんです。1年前にこの空を見た時のあの時間は、辛くてやりきれなくて堪らなかった。それなのに、思い出したくなるのは……生きてた父との、1番近い記憶だからなんでしょうかね」
いきなりそんな暗い話をされても、迷惑でしかないことは分かっていた。
それでも、この美しい茜色の夕焼け空を見る度に亡くなった父を思い出すのだということを、誰かに知っていて欲しかったのかもしれない。
この空の美しさを共有し合えた人に。
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