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ありていに言えば、そういうことだった。
しかし、榎本はもう麻衣に恋をしているとは言えない。彼女を愛してはいるが、彼女の存在はあまりにも当たり前のものになってしまった。
激しい情熱に満ちたパワーはもうそこにはない。
「君はそのマイちゃんが好きなの?」
私はカズヒロに聞く。同姓同名の少年に、榎本はいつの間にか親近感を覚えていた。
「そんな訳ないじゃん。別に何とも思ってないし。」
カズヒロはムキになっているように、榎本には見えた。きっとそのマイちゃんに恋をしているのだろう。榎本がとうの昔に失くしてしまった感情だ。
「オーケイ。君はマイちゃんのことが好きな訳じゃない。でも、いざとなったら素直になった方が良いと思うよ。意地を張っても損するだけだ。」
まあ、小学生に意地を張るなと言っても、実際は難しいだろう。大人だった難しい。意地の意味やその周辺知識を知っていたとしても、中々一度張った意地を取り下げることは出来ないのだ。
「何なんだよ。おじさん。もう行くね。」
カズヒロ君は私の横を通り過ぎて駆け出した。
「誰かに誘拐されないようにな!気をつけて帰れ!」
榎本は声を張ってカズヒロ君の背中に言葉を放つ。
言ってから、誘拐されているのは自分の方だった、と榎本は自嘲気味に笑った。
聞こえているのか、いないのか。カズヒロがあっという間に橋を渡り切って遠くに去っていくのを見ながら、榎本はまたタバコに火を点けた。
時刻は17:20。
どうやらこれ以上何も起こりはしないようだ。
禁煙しているにも関わらず、スーツの内ポケットにシガレットケースを忍ばせておいたのは、それが榎本にとってお守りのような役割を果たすからだった。1本のタバコは、最後の抵抗の印になる。
スーッと息を吐きながら、榎本は自分が何に抗おうとしているのか考えるた。しかし、何のアイデアも浮かんでこない。ただ、橋の下に咲いている菜の花を見て、暖かそうだなと思った。
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