8人が本棚に入れています
本棚に追加
私は輪郭を得て、少しづつ気分が落ち着いてきたようだ。タオルで濡れた身体を拭くと、甘い柔軟剤の匂いに包まれた。これは妻の趣味に違いない。
私はそのままスーツ姿に着替える。スーツは私を一層私らしく保ってくれる。まるで、私の方がスーツに合わせて身体のサイズを変えているかのように、ぴったりと馴染んだ。
朝食にはトーストを焼いた。焼きたてはサクサクと崩れやすく、スーツにパン屑が付くのを払う。どうしてスーツに着替える前に食事を済ましてしまわないのだろうか。しかしどうやらそれは、私のお決まりのルーティンであるらしい。
私はバターを載せたトーストをベッドまで運ぶ。
そろそろ妻も起きる時間だ。
「ん、ん、良い匂い。」
彼女はまた目を瞑ったまま首を伸ばす。
そして上を向いたまま目を開いたり閉じたりしている。
「食べるだろ?」
私は白い陶器の皿に乗ったトーストを彼女に渡す。
彼女は肺一杯にバターの濃い匂いを吸い込む。
「うん。ありがとう、カズ。」
彼女は私の名を呼んだ。
そうか私はカズか。その瞬間初めて、私は単なる私という存在から、榎本和宏という人間になった気がした。大皿に乗ったスパゲッティ取り分けて、”はい、これがあなたの分ですよ”と言われたような、そんな気分だ。私は私の分のスパゲッティを食べることに集中出来る。
「マイ、まだ残ってたっけ?ミートソース。」
パン屑をシーツに散らかさないように、お皿を顎の下にしてトーストを食べる妻に私は聞いた。
やっぱり首筋が綺麗だ。
「何?急に。語順もなんか変。ミートソースならまだあったと思うけど。」
妻はトーストを両手で持ったまま、不思議そうに聞く。私は自分でも変なことを言ってしまったと反省する。
「いや、何か急に食べたくなっちゃって。」
そしてできることなら、大皿に一度盛ってから取り分けて欲しい。
いい年齢の大人がスパゲッティをねだるだなんて。私はネクタイを締めながら、気恥ずかしさを誤魔化して言う。
「そう、じゃあ今日はそれにする?スパゲッティ。」
妻は巫山戯て私の言葉を真似て言った。
私も苦笑いをして、そうしてくれと妻に言う。何だか本当にスパゲッティが食べたくなってきた。
「じゃあ、行ってくる。」
私は鞄を持ってベッドルームを出る。
「行ってらっしゃい、じゃあ。」
私は壁越しに妻の声を聞きながら、家を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!