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雑居ビルの2階にある事務所は薄暗い。
榎本和宏はそこで会計事務所を営んでいた。個人の小さな事務所で、仕事の大半は中小企業の税務処理だ。古びたデスクに旧型のマッキントッシュ。減価償却はとっくに終わっている。泣かず飛ばずの経営状況の中で、榎本は仕事に追われていた。
榎本が独立を決めた時、こんなことになろうとは想像もしていなかった。
「榎本先生、大変です。」
唯一の部下の高木が事務所に入るなり、デスクに向かって迫る。そうだ、大変なのだ。小さな仕事をいくらこなしてもロクな収入にならない。君を雇うだけで精一杯だよ。私は。そんなことを独りごちながら、榎本は高木をようやく視界に入れる。
しかし彼はかなり慌てた様子で、視線が定まっていない。
「ん?どうした?」
口元に苦い笑み浮かべながら、榎本は言った。
クライアントの急な依頼とか、どうせそのような類のことだろう。焦ってもしかたないと、その辺りに関して榎本は鷹揚に構えている。
「これ、見て下さい。先生が誘拐されたって。」
高木は折り畳まれた紙片を勢い良く私のデスクに叩きつける。衝撃で机上の万年筆が跳ね上がった。
誘拐?
榎本は訝しみながら紙を手に取った。
”私は榎本和宏を誘拐した。取り戻したければ、相応の対価を支払わなければならない。”
昔ながらの便箋の中央部に、明朝体でプリントアウトされた文字を榎本は読む。手紙に書かれたのはたったそれだけだった。
「先生、どうしましょう?」
高木は未だパニック状態から抜け出せていない。高木は優秀だが、肝が小さい。
「高木くん。」
榎本は彼を落ち着かせようと、普段よりも声を低く落としてゆっくりと言う。
「大丈夫。榎本和宏は君の目の前に座ってる。」
「......。」
高木は一瞬キョトンとした顔をして、誘拐されたという私を見つめる。そして、間を空けてから、ストンと胸を撫で下ろす。
「そう...、ですよね。ごめんなさい。誘拐なんて只事じゃないと思って、すっかり慌ててしまいました。」
ネクタイをひらひらさせながら、高木は段々と落ち着きを取り戻すようだった。
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