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しかし、奇妙な脅迫文もあったものだ。誘拐した本人に身代を要求するなんてことがあるだろうか。しかも、その内容が全く明瞭ではない。また、よく見ると、手紙の罫線は明朝体の文字と一緒に印刷されたものではなく、便箋の元々のデザインのようだ。だとすると、手紙の差出人は、便箋のデザインに合わせて文字の位置を調整して、プリントアウトしたということになる。
イタズラにしては随分神経質なことだ。
「先生、これ。切手も消印もありませんね。犯人が自分で投函したということでしょうか。」
高木は手紙が入っていたらしい封筒を榎本に差し出しながら言う。確かに、茶封筒には何も書かれた形跡が無い。
「本当に誘拐されてませんか?」
高木は冗談めかして言った。笑うところではない場面で、高木は笑うのだ。
※ ※ ※
2通目の脅迫状が届いたのは、それから暫く経ってからのことだった。
旋盤加工会社の社長とミーティングをして事務所に戻ってきた時、私は見覚えのある茶封筒が投函されているのに気づいた。
”9月25日(火)宮前町 丸太橋 17時00分。榎本和宏を返して欲しければ、1人でそこに来い。”
手紙にはそれだけ書かれていた。今度はやけに指示が具体的なだけに、榎本は少々面食らう。
宮前町の丸太橋。何処にでもあるような名前だ。
榎本は知っている橋をいくつか思い浮かべるが、ピンと来るものはない。どれも丸太橋だと言われればそんな気もするし、確実な名前を言える橋などありはしなかった。これでは、榎本和宏を返して貰おうにも、行く場所が分からない。
榎本は窓を空けて、タバコに火を点けた。事務所は禁煙だったが(榎本自身がそう決めたのだ)、今はとにかく煙を吸いたかった。しかし、一口吸うと榎本は咽せ返してしまう。考えてみると、それは久しぶりのタバコだった。榎本は妻から禁煙を命じられていることを思い出す。妻に言わせれば、愛煙家だった榎本は自殺志願者ならぬ”燻製志願サーモン”に見えたらしい。狭い喫煙スペースに群がって、煙の中に喜んで入っていく姿は、確かに自ら燻製になりにいく鮭に見えるなくもない。
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