誘拐された私

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榎本は確かに妻と結婚してから変わったのだ。それは精神的な変化だけではなく、肉体的な変化を伴う。まず、禁煙したことによって少しは肺がクリーンになった。怠けていたジムも真面目に通うようになった。そして何より、妻の作る栄養バランスの取れた食事が榎本の身体を作る。 ある意味、妻は榎本のトレーナーであり、榎本は妻によって徐々に調教されていると言っても良い。実際のところ、結婚前の自分がどのように身体を使い、どのように物事を考えたのか、思い出すことは難しい。それほど変化は大きかった。 しかし、それは多かれ少なかれ、全ての結婚する男女に当てはまることなのではないかと榎本は思う。生活を共にする以上、ある程度の価値観は共有をする必要があるし、同じ釜の飯を食べれば必然的に身体も同じようなカタチになっていく。柔軟剤の匂いまで一緒なのだ。長年連れ添った夫婦が互いに似てくるのは、この辺りのカラクリが働いているように思える。 それにしても、”丸太橋”。 榎本はもう一度煙をゆっくり吸って、大きく吐いた。タールが肺の隅々から脳細胞まで行き渡るような気がした。 そして、ふと頭の中に橋のある風景が映る。古い記憶を辿るようにして、その場所がどこだったか考える。丸太橋、丸太橋、マルタ橋。 ーじゃあ、マルタ橋は世界で1番小さな橋ね。記憶の中で女の子が言った。 ああ、マルタ橋か。榎本は遂にその場所を探り当てる。 「榎本だ。」 榎本は高木に電話をかける。 「先生、どうかしましたか?」 高木は外にいるのだろうか、周りの雑音が大きい。 「今から脅迫状の指示に従って、ある場所に行ってくる。脅迫状はデスクの上に置いたままにするから、万一私に何かあったらそれを持って警察に行ってくれ。」 榎本は一気にまくし立てる。 「ちょっと、待って下さい。脅迫状ってあの誘拐のやつですか?先生、危ないですよ。ヤメたほうが良いです。」 高木は驚くほど大げさに動揺した。高木が街の中で携帯電話を耳に当てながら右に左に行ったり来たりする姿が思い浮かぶ。 「時間がないんだ。とにかく、万一の時は頼む。」 それだけ言って、私は電話を切った、 万一の時は。私は何故か焦燥感に駆られていた。危険を承知の上で、必ず行かなければならないというメッセージが脳幹から発せられて大脳の理性を屈服させる。 私は愛車のプジョーに乗って、指定された場所へと向かった。
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