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「ううん。おじさんだけ。」
カズヒロは言った。榎本は期待が外れて少しだけ落胆するが、子供の手前それでも表情は変えずに優しく頷いた。
「君は、ここで誰かを待っているの?」
榎本はまた尋ねた。カズヒロは困ったような顔をして、コクリと顎を引いた。
「うん。でも何を待ってるかは分からないの。下駄箱に手紙が入ってて、最初はマイちゃんから告白されるのかと思ったけど...。」
榎本はカズヒロの話を聞く。彼もここに呼び出されたということは、この奇妙な誘拐事件に繋がりがあるのかも知れない。
「マイちゃん?」
私はその名前が懐かしい響きをもって脳内に反射するのを感じる。
「うん。同じクラスのマイちゃん。」
私は妻の幼いころを思い出す。榎本と麻衣も小学生のころに出会った。当時から彼女は大人びていて、綺麗な女の子だった。そう言えば、この橋の名前が丸太橋だということを教えてくれたのも彼女だった。
ーマルタって知ってる?
小学生の頃の榎本が麻衣に聞いた。
ーううん。
小学生の頃の麻衣が首を振る。その頃から綺麗な首だった。首を振らせる為に、無意識的にわざとそんな質問をしたのかも知れない。だとしたら、榎本は小学生の頃から全く変わっていないことになる。
ー地中海の島国で、世界で最も小さい国の1つなんだ。
榎本少年は自慢気に言った。
ーそう。じゃあ、マルタ橋は世界で1番小さな橋ね。
麻衣が答える。
そうか、あの声は麻衣の声だったのか。榎本は丸太橋を思い出すきっかけになった言葉の持ち主を見つけた。あれから、2人はしばしば”世界で1番小さな橋”で待ち合わせをして、一緒に帰った。何でもない生活橋が、丸太橋という名前を与えられて、榎本の世界に出現した瞬間だった。
榎本は彼女との仲はしばらく続いたが、高学年になるとやがて疎遠になった。
喧嘩したとか、何かきっかけがあったのかも知れないが、今やもう記憶にない。段々大きくなっていく彼女の女性としての魅力が、小学生の多感な時代には、どこか恐ろしさを感じさたのかも知れない。あるいは自分自身の中に芽生え始めてくる未知の感情に怯えていたのかも知れない。全体像が見えない恋心を当時の榎本は極端に避けていたように思う。それがどうして再会して結婚することになるのか、榎本は直ぐに思い出すことが出来ないが、とにかく榎本と麻衣は再び結ばれることになる。
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