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「すごくいい匂いがしていたけど、今日はなにを作っていたんですか?」
デスクに向かって記録をつけていた榊が手を止めずに声をかけてくる。
「外まで匂ってましたか。すみません。今日はアサリとタラで簡単なブイヤベースにして煮こんでみたんですけど」
「へえ。おいしそうですね。そういえば、鶴木さんが褒めていましたよ。航介のご飯がすごくおいしいって」
「いえ、そんな、たいしたことじゃないんです。鶴木さんは貧血だっていうし顔色も悪かったんで、俺が勝手にお節介しただけですから」
鶴木がクリニックを訪れる度に、なにかと理由をつけて夜食の包みを押しつけていた。最初のうちひどく遠慮していた鶴木は、試写会のチケットや地方ロケの土産などを持ってくるようになった。
「一滴も飲んでいませんね。経過は順調です。今週もよく頑張った」
「いえ、全部、先生のおかげですから」
目黒は膝の上で組んだ指先をもぞつかせ、小さくうつむいている。
「もう、外でも暮らせると思う?」
「わかりません。まだ、自信がないです」
「もう、大丈夫ですよ。航介」
組まれた手の上に、榊の両手が重ねられる。わずかにほつれた黒髪が鼻先をかすめる。あたたかな手で包みこまれていると、それだけで体が熱くなってくる。
「……先生、あの、いいですか」
「いいですよ、おいで」
榊はフレームのない丸眼鏡を外してデスクの上へ置いた。カーテンをめくって靴を脱ぐと、簡易ベッドに腰を下ろす。
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