Sleep

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志歩が一通り喋ると、川本は20秒程、何も言わなかった。沈黙。志歩は任務を果たし、戦火を浴びて怪我を負った死にかけの兵士の様に、身も心もボロボロの状態で、ただ床の上に立っていた。 そして川本は口を開いた。 「もう夢を見る必要がなくなったんじゃないのかな。」 それを聞いて、志歩は理解ができず、ただ呆然としていた。 「とりあえず、今日佐々木の家に行くよ。」 志歩は川本に住所を伝えた。それから電話を切り、志歩はのろのろと歩いて洗面所へ行った。鏡に映った自分は相当痩せてやつれていた。落ち窪んだ目、正気の宿らない瞳、削げ落ちた頬、色素のない唇、青白い肌。 梳かされていなかった髪は好き放題に顔面を隠し、手で梳かしてみるもギギギと音を出し、複雑に絡み合って全くほどけなかった。 「本当に落ち武者みたいだ。」と呟いた。 栄養不足に陥った人間の典型例が、そこにあった。 細胞が悲鳴を上げているのが聞こえた。 私は自分の頭上右側に存在する魂と、瓜二つの様な外見になっていた。 右側を下にして眠る事が多かった為、右の臀部に床ずれができ、とても痛かった。志歩が歩くたび、痛みはズキズキと主張を繰り返した。 川本は電話を切ってから50分後に志歩のもとへやって来た。 志歩のあまりのやつれ具合を見て、川本はギョッとした顔をした。 「痩せすぎでしょ・・・。」 そして病人を見る様な、辛気臭い面持ちで志歩を見た後に、心底悲しそうに微笑んだ。 志歩は布団に包まりながら川本を迎え入れ、電話でしたのと全く同じ内容の話を繰り返した。川本は志歩の近くに来て、真剣な顔で、やはり何も言わずに聞いていた。志歩が何回同じ話をしても、いちいち初めて聞くかの様な顔をして聞いていた。 志歩は自分を壊れたカセットテープみたいだと思った。何度も何度も、つっかえながら同じ事を繰り返す。 もう言うべき事が何もない。志歩は一頻り話すと今度は長い沈黙の海に沈み込んだ。川本の顔を見れず、俯いていた。 すると、川本が沈黙を破った。「これ。」川本はリュックから何かを取り出し、志歩の前に差し出した。 それは写真だった。 小学生の頃の写真だ。入学式の写真、学校の中庭で皆で遊んでいる写真、学習発表会の写真、夏祭りの写真、卒業式の写真ー。 様々な行事の写真たちが、そこにはあった。 志歩は自分の心臓がドクンと鳴るのが分かった。自分が大切に大切に、記憶の箱に閉まっていたもの。鍵をかけていたもの。この頃の、幸せだった頃の記憶。もう戻って来る事はないものたち。 写真の中には志歩が写っていた。小さい志歩は髪を二つ結びにして赤いワンピースを着て笑っていた。また別の写真では、志歩は髪をお団子にし、デニムのオーバーオールを着て、キョトンとあどけない顔をしていた。 入学式の写真ーそこには少し緊張した顔をした志歩と、志歩の両親がいた。 他の学校行事の写真にも、志歩の両親が小さく写っていた。 大きな口を開けて笑う母。楽しそうに微笑む父。そして守られている事への安心、幸福の表情を浮かべる志歩。 急いで箱にしまおうとするのだが、もう無理だった。今まで見ない様にしていたものたちが束になって志歩の目の中に入り、脳に残されたある部分と結合し、完全に像を浮かび上がらせてしまった。 志歩はうまく呼吸ができず、だんだんと過呼吸気味になっていく。川本はそんな志歩の背中をいつまでもさすってくれていた。 「お前と再開してから実家に帰ってアルバム探したんだよ。写真ちゃんと残ってた。俺、お前の両親知ってるよ。小学校の頃の学校行事でもよく見たし、家もそこそこ近かったから、たまにスーパーとかで会ったりしてた。優しくて良い親だなって思ってた。 高校なってお前の両親が交通事故で亡くなった時、俺も母ちゃんと一緒に葬儀に参加したんだ。お前とは高校は違ったけど、小、中一緒で仲も良かっただろ。俺もかなりショックだった。 そんで葬儀の時お前の事を見て、俺本当に心配になった。だってお前平気そうな顔してたんだもん。普通、自分の親が亡くなったら泣くだろ。その時のお前は全然泣いてなくて、葬儀に来た人に挨拶したり、なんか雑務してたり、とにかくまるで他人事みたいに動いてた。 辛い状況の時に感情を押し殺す事という事が決して良い事だと俺は思わない。」 川本は続けた。 「その時の目が忘れられないんだよ。すげえ綺麗な透き通ったビー玉みたいな目なんだけど、すごい遠くを見てて、全然目の前を見てないんだ。お前の目、すっげえ綺麗なのに、目の中に色が無くて、不気味だった。でもその時から、忘れられなくて。お前はあれから親戚の家かどっかに引っ越して、もう会う事はなくなったけど、お前のあの目がずっと俺の中に残ってて、時々思い出すんだ。」 今度は志歩が聞く番だった。志歩はずっと川本の言う事を聞いていた。 記憶の箱が次から次へと開けられていく。 志歩はまるで傍観者だった。自分の記憶のはずなのに、箱がどんどん開けられていくのを止める事が出来ず、呆然と眺めている。
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