Sleep

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志歩には好きなことが二つあって、一つ目は眠ること、二つ目はベランダから人間を見ることだった。毎日色々な人を見る事ができる。 にぎやかに歩いている親子、仕事帰りのサラリーマン、にやにや笑いながら自転車を漕いでいるおっちゃん、何の悩みもなさそうな男子大学生たち、ジム帰りのOL。 毎日、色んな境遇の色んな人たちを見る。 もしかしたらこの中に、今さっき人を殺してきたばかりの人も歩いているのかもしれない。 平気な顔をして、何もなかったかのような振りをして。 狂気が顔を隠して日常に溶け込んでいる。 世の中とはそういうものだ。タバコを深く肺まで吸い込み、ふーっと長く息を吐く。 少し肌寒いかな、と感じ、毛糸のカーディガンを羽織った。外はもうイチョウの葉っぱが紅葉し始めている。 秋は好きな季節だ。一層、物悲しい気持ちになるから。 出勤すると、明日香がいた。 「久しぶりじゃん。あんた、最近ちゃんとしてるの?」と聞かれ、 「うん、いつも通り。」と答えた。 明日香とは同僚で、もうかなり長い付き合いになる。何かと志歩の体調だったり日常生活について気にかけて心配してくれる。 志歩が何も食べずに過ごして倒れた時も、いち早く病院に駆けつけてくれたのは明日香だ。 明日香は35歳で、すでに2度結婚し、2度離婚している。傷んだ髪を腰まで伸ばし、真っ赤な口紅を塗っている、痩せた女だ。 お互い孤独なのだ。 「いつもそう言うけどさ。あんたまた痩せたんじゃない?本当に大丈夫なの?ちゃんと食べてる?30過ぎたら、髪とか肌にもろ出るからね、すぐに分かんのよ。」 明日香は志歩の心配をする事で、どこか自分自身の欠落を、開いてしまった穴ぼこを、埋めようとする傾向にある。 そして志歩は思うのだ、みんな心配する相手を欲しがっていると。心配が欲しいのだ。誰かの事、何かの事を心配していないと自分自身を保てないのだ。 「大丈夫、客が頼んだ酒で栄養摂るから。」 そう言うと、明日香は呆れた顔を見せた。 もちろん、仕事中も志歩は眠りながら生きている感覚に陥る。眠りながら生きるというのは、夢なのか現実なのか分かっていない、という事だ。 夢と現実の境目が存在しない。ずっとふわふわ空中に浮かびながら過ごしている気分で、誰と話しても何をしていても現実味が湧かないのだ。 私はもう病気なのかもしれない、そう思った。 頷いたり微笑んだりするだけで、男の人というのは随分喜ぶものなのだと知り、以来、志歩は必要最低限の会話しかしていない。あとはお酒を飲んだり客のタバコに火を付けてあげたりきちんとお見送りしてあげればいいだけだ。 あとは泥が排水溝に流れていくように、ずぶずぶと時間が飲み込まれていくのを待てばいい。 志歩にとって、仕事に行くことは時間を浪費する為の手段であった。
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