泰然の、白縹

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 面会時間いっぱいまでは滞在するつもりでいたが、人を待たせてはいけないと不必要な律儀さを見せる一史に急かされて病室を出た。隣の病室は四人部屋らしく見舞いの人らしい声の慎ましやかな笑い声が聴こえている。重症患者や、高齢患者の棟ではないらしいこの棟は日が暮れて尚、穏やかに明るい。  それ故に、エレベータの乗り場を挟んだ向こう側の、日が差し込まないのが殊更に陰鬱に思われ、まるで夜に呑まれようとしているようだった。  事件当日、病室前にあった人影は今は席を外しているようで長い廊下をケーシー姿の看護師がワゴンを押しながら歩いているのだけがなんだか薄らぼんやりした現実味の無い様子で迫ってくる。エレベータの扉を素通りし、薄暮に踏み出す。  ケーシー姿と擦れ違う瞬間、そっと息を詰めた。現実味のないと思っていたものは擦れ違った瞬間に急にはっきりしてこちらに一瞬だけ目をくれた。  黒い人影が座していた扉の前に立つ。表札はない。ただ名札を入れるはずのプラスティックの枠が空白を囲んでいる。他に人はいない。エレベータのカゴはまだ階下にある。 ―――今なら、  迷った振りと何の事情も知らない振りで病室に入り、繋がりを作れるかもしれない。話は何でもいい。ただ、火事の話と、腹の子供の話はなしだ。当然、過去の事件の話も、元の仕事に関しても。火事で怪我をした友人を見舞いに来て部屋を間違えたフリをするか。それならば八割がた嘘ではない。友人ではない。友人ではないと、思っているが。  限りなく透明に澄んだ一史の顔を思い出した。凛とした冷たさでこちらを拒む眼差しが、自分が思っていたよりずっと鮮明に脳に浮かんだ。 ―――繋がりを持ってどうする。  晴人はもうジャーナリストではない。ネットの繋がった端末さえあれば誰でもジャーナリスト振ることが出来るようになった時代だが、自分がそうなるつもりはない。  そんな生半な感情ではすまないことも判っている。  一度踏み出してしまったら、振り返ってしまったら。それは今の自分がしてはいけないことだとわかっている。  静かに閉じた扉から、離れる。その一歩が途方も無く遠いものに感じられた。腹から息を吐き出してエレベータに向かう。カゴは丁度すぐ下の階に到達していた。下方向を示したボタンを押す。そのまま落とした視線が土にまみれたスニーカを映した。その事実に一瞬当惑する。自分の履いていた靴はこれだったか疑わしくなる。いつでも身軽に動ける靴を履いていたのは事実だ。だが。  当惑した自分に一層混乱してもう一度息を吐き出した。同時に開いたエレベータの扉から一組の靴が現れる。それは良く磨き上げられているが機能性の良さそうなレザースニーカーで、一瞬過去の自分が目の前に現れたのではないかと晴人は顔を上げた。自身の目線に今時の青年らしい貌が見えた。 「?」  スマホを見ていたらしい青年が晴人の視線に気がついて訝しげに目を眇める。 「失礼、」  不必要に注視してしまった居心地の悪さに視線を逸らす。青年は特に何か言うでもなく晴人のもと来た道を逆に辿っていった。  一史の病室の方だ。隣室の見舞いだろうか。学生染みた風貌。社会人であったとしても新卒くらいの年齢だろう。  もうすぐ面会時間が終わる。一史は少しの時間くらい、隣室で騒がれたところで何も言わないだろう。むしろそれをどこか羨ましそうに見やっている姿が思い浮かんだ。 「ちゃんと食って、早く治せ。」  誰もいないカゴの中で小さく呟いた声が自分らしくなくてまた息を吐き出した。
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