泰然の、白縹

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 半地下の階段を上ると、繁華街は未だ人が多い。帰宅する勤め人の姿も、学生の姿も見える時間だ。面会終了時間前に病院を出、その足で有栖がいるはずだった喫茶店へ向かい、そこの店員から別の店を教えてもらい、更に別のバー、そして先ほどのクラブと何のためにスマホを携帯しているのかと疑いたくなる旧時代的なやり方で有栖の居場所にたどり着いたが、体感していたよりも長い時間ではなかったらしい。少なくとも背中に酔客を負う姿が目立たない刻限ではない。 「何でクラブになんかいたんですか」 「誘われたから」  耳にかかかる息はアルコールを多少含んでいるが、有栖の足元がおぼつかなくなるような量ではない。自分の足で歩けるくせに有栖は晴人に寄りかかっている。肩に回された腕は自然、晴人の左胸に落ちていた。 「誘われたら付いて行くんですか。」 「場合によるけどね、俺クラブ好きだし。」  言いながら空いた手が有栖自身のパンツのポケットに突っ込まれる。そこに入っていた煙草を拉げたケースごと取り出し、片手で一本器用に取り出して唇に咥え火をつけた。首筋から少し離れた場所で癖の強い匂い。 「落ち着くだろ、クラブ。」 「落ち着きませんよ」 「落ち着くよ。明滅するフラッシュ。轟音、男女関係ない叫び声、たまに混じる怒声、キチガイみたいな笑い、踊り狂う姿。あんなに戦場に似てるのに、誰一人死なない。音と光の暴力で弄られるのに、殆どの人間は悦にいって体を揺らしてる。」  首筋に絡む腕を退けようと煙草を持たず、自分の胸に回されている右手に触れた。拳胼胝や傷の多い無骨な手だった。 「落ち着くだろ。」  その手が不意に晴人の手首を掴んだ。手首のぐるりにカサついて硬い皮膚を感じる。 「……落ち着きませんよ、」 「嘘だな。」  間近に迫った目がお前も同じだと雄弁に語る。極度の緊張に精神が昂ぶり、脳内麻薬が分泌される、その快感を最も愛する生き物なのだろうと自白を強要する。途中で途切れた眉にある傷が、抉れて肉色のケロイドを曝している。その傷をつけたのが誰なのか晴人は知らない。その傷をつけた人物がどのような主張を抱え、有栖に刃を向けたのか、誰のための行為だったのか、何を動かしたかったのか、何も、晴人は知らない。 「落ち着きませんよ、あの中に生徒がいたら指導しなきゃならないのは俺ですよ。」  落ち着くはずなど無い。ただ、言い得も知れない焦燥に駆られる。それを隠して晴人は目を逸らした。態のいい言葉で濁した事実に気がついていて、有栖は晴人の手首を握る力を強めた。 「センセイは大変だなァ」  痛みに視線を向けた晴人の眸を注視して有栖は笑った。誤魔化されたフリをしているのがありありと伝わる笑みだった。有栖の手が離れる。肩に回っていた腕はそのままネオンの上、申し訳なさそうに転々と光る星に向かって伸ばされた。 「あー、やっぱいいね。日本。平和だね。」  巨躯というほどでもないが、一般人離れした有栖が体を伸ばす。 「……平和、ですよ。」  だからこそ、有栖のあの動きが頭にこびりついてはなれない。 「武器、持ってるんですか」 「持ってないよ。」  有栖の吐き出した煙が長く伸びて膨張して空気に溶ける。 「海外の貸金庫に預けてある。だから焦ったんだ。一瞬。」 「いつも、携帯してるんですか。」 「そういう場所にいるからな。一番危ない場所にいくときはちゃんと傭兵隊に入るか、じゃなかったらどっかの組織とかに入ってそれなりのを支給してもらったり、買ったりするけど」 「撃ったことは」 「あるよ。」  伸ばした腕をそのまま頭の後ろで組む。周囲はもう晴人のことも有栖のことも気にしてはおらず、ささやかな会話は繁華街のざわめきに簡単に紛れた。 「無用ならば持っている必要は無いだろ。武器(それ)を見ただけで怯んでくれる人間が相手なら威嚇にもなるがな。むしろ逆だ。武器を持っていれば気を引き締めて襲い掛かってくるし、武器を持っていないと判れば余裕を持って襲ってくる。」  堪ったものじゃないなと、晴人は思う。 「自分の命が狙われるなら仕方ないさ、そういう場所だ。」 「怖ろしいですね。」  反射的に答えながら、果たして自分は本当にそう思っているのだろうかと疑問を感じた。
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