泰然の、白縹

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 人を殺すことはあってはならないことだ。だがそれは、平和な世だからこそ成立するルールだ。日本ではそれを当然だと言える。だが海を渡ればその常識は通じなくなる。通じなくなる場所が、ある。陽が落ちて尚明るいこの街はそれを知らない。日没と共に明かりを消し、息を潜めなければならない場所があることを、その心情をこの国の人間はしらない。  人を害なせば当たり前のように罰せられる。法は善良なる自分達を守ってくれる。子供達は大人の手により保護され、人間としての尊厳を守られる。程度や格差はあれど最低限の生活は保証される。大半の人間はそこに些かの恩恵も感じることなく、当然のものと享受している。 「郷に入ては郷に従え。」  煙草を燻らせた声がくぐもっていた。柔らかく青味がかった煙が夜気に膨張する。 「当たり前っちゃ、当たり前ですね。が当たり前の場所に行ったら躊躇ったやつから死ぬ。」  少し先を歩いていた有栖が視線だけを寄越してくる。その視線は興味などないという風でいてその実瞳にキラキラとネオンだかなんだか良く判らない光を反射していた。 「……やっぱり、周防(おまえ)がいいなぁ」 「何がですか。」  色事に似た言葉に眉を顰める。力を込めすぎた眉間に痺れのような痛みがあった。煙が柔らかく交差していく。絡んで、縒って境が暈けて広がる。 「連れていって欲しいんだよ。」  含みを持つ曖昧な物言いに晴人はさらに目を眇めた。眇め見たところで有栖の肚の内が見えることは無かった。  繁華街の半ばで脇道に入る。それだけで周囲は一層暗くなった。コインパーキングの看板だけが心もとなく灯っている。 「何か用があったんじゃないんですか。」 「ん。俺の要求なんて判ってるでしょうよ。」  判っている。判っているから腹が立つのだ。外堀を埋め、行く場を奪い自分の望むものを手にしようとするやり方。1度目は失敗した。晴人がそれと気付かずに自分に失望し、病んで行ったからだ。 「あの子でもいいと思ったんだがなァ。」  あの子と称された一史は有栖の、晴人の考え方に同調することはないだろう。自分の生存のために人を撃つ。それをしなくてはならなくなったら、恐らく、自分から撃たれに行くのだろう。だがそれは清廉潔白だとか、自己犠牲だとかではない。晴人にも良くは判らないが、一史は違うのだ。そういったもので動いているのではない。  火事の最中に飛び込んでいったのも同じだ。誰かが助けなくては助からない、それも多分にある。だが正義感や偽善やらというにはあまりにも、潔すぎる。躊躇いが無い。  黒いセダンの停まっているスペースのナンバーを確認してするついでに施錠を解除した。そのまま、清算機にナンバーを打ち込む。背後から伸びてきた手がコインを投下した。 「やっぱり、俺が欲しいのは周防なんだよねぇ。」  伸びてきた手を追って視線を向けたとき、有栖の目が笑った。清算機の光を反射して輝いた目は暗視スコープの小さなライトにも、夜陰に反射した肉食動物の目にも見えた。  有栖は同じ過ちを犯さない。  今度は直接的に晴人に訴え、要求し、更に晴人の周囲にまで手を伸ばしている。一番、手を伸ばされたくない場所に、手を伸ばしている。 「どこに送ればいいですか。」 「……周防の家。」 「嫌ですよ、」 「宿無しなんだ。ホテルも今日までしかとってない。」 「飛び込みでビジホにでも泊まればいいじゃないですか。」 「イヤダ。」  頬の横で機械を殴打する音が響いた。頑強に固定されているはずの清算機が震動して、ブウンと機械音を立てた。 「壊したら弁償だし、監視カメラついてますから、警備員来ますよ。」 「うわ、やっべ、ヅラかろ。」  突拍子もない言動の果てに有栖は滑らかに晴人の車に乗り込む。普段なら空いていないはずの助手席が綺麗に片付いていたことに舌打ちしたくなった。
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