不透明な、空虚

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不透明な、空虚

 瞼を開く、朝を迎える。  ただそれがけの行為が、今の一史にはあまりにも困難で、忌避すべきもののように感じる。カーテンレールを走るランナーの音があまりにも鋭い。鼓膜を突き破り、脳まで貫こうとしているかのようだった。網膜を焼く陽の光は、いっそそのまま自分という存在を焼き尽くしてくれたらいいと思うのに、ただじわじわと瞼を熱し、赤い視界を齎して不快にするばかりで一史の願いを一向に叶えてはくれない。  漸く意を決して目を開いたところにカラースクラブの看護師が視界に入った。 「おはようございます。」 「……おはようございます。」  興味などないという風を装った看護師が起き抜けの振りをした一史の顔を一瞥して声を発した。その一瞥もまた、あくまでも一瞥の風を装ったものだ。だからこそ、一史の心音は不穏なほどに跳ね上がり、寝癖のついた髪をそっと撫で付けて繕った。 「よく眠れましたか。」 「ええ。……さすがにこう何日も入院が続くと体がなまりそうではありますが」  口角を上げて少し歯列を覗かせる。 歯を見せる笑い方は子どものよくする笑い方だ。他人に素直さを印象付ける。  だから、その笑顔を選ぶ。  歯をむき出しにして下品になりすぎてはいけない。はにかむような、しかし、卑屈にならない、丁度良い笑みを作る。  そうしながら一史の頭に浮かぶのは疑心ばかりだ。  なぜ、睡眠状態のことなど問うのか。看護師はこんなにも頻繁に病室に来ていたか。わざわざ寝ている人間の顔を覗き込んだことに意味はあるのか。 「車椅子をお貸ししましょうか。今日は天気もいいし、中庭に出るくらいならいい気分転換になりますよ。」  看護師はタッセルでカーテンをまとめながら提案する。男性看護師の頭は窓の方に向いたままで表情を読み取ることはできない。 ―――他意はない、  そう念じてみても疑念が擡げる。車椅子を借りるとして、押すのは彼なのだろうか。そのとき彼はどのような話をするのだろうか。自分はどのように答えるのが正解なのだろうか。目立つことなく、自然に、散策を終えるにはどう接するのが最適解なのだろうか。  慎重に息を吸い込んで吐き出す。ずっしりとした疲労が全身に圧し掛かってくる。 ―――もう、いやだなぁ。  暫く感じなかった投げやりが肺を支配した。 「折角ですが、仕事もありますので」  ベッドテーブルに置いたノートパソコンをそっと撫でて笑う。拒絶の言葉を吐いても語調が柔和であれば大抵の相手は気分を害したりしない。  上手い断り方を覚えたのはいつだったか。  出来るだけ、相手に不快を抱かせないように、仕方ないと思って貰えるように。そう配慮することが当たり前になって、それでも多少の不和は避けられないものなのだと知ったのはいつのことだったか。  すっかり忘れていた感覚に、なぜ忘れていられたのか、何とはなしに不思議になった。 『あんたの存在が、不快。』  呪いのように注がれた声を思い出す。 『どんなに気を付けたって不快なんだから気遣うことを怠けないでよ。気配を消してよ。その顔だけで目立つんだから。』  酷く甘い、粘着質な言葉が耳にこびりつく。
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