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瀬戸は指先で原稿をカウンターに戻し、丁寧に一行の文をなぜた。
「特に、ここの文」
子どもは保護者の所有物ではないことと、それでも、誰かの庇護がなくては社会の中で存在して行くことができない事実を残酷なまでに痛切に訴えた文。
送りつけられた作文に、朱をいれた自分の手。何故あれを返送してしまったのか。今の自分には書けない記事を、代わりに本人に書かせたかったのか。
「瀬戸さんのソレって、もはや気持ち悪いレベルですよね」
「だって、俺、周防晴人の文章に惚れてるもん」
「気持ち悪い」
少し目を眇め、グラスに残ったウイスキーを飲み干す。小さく鳴いたボールアイスの音に、カウンターの向こうからバーテンが小さくこちらを伺った。
「スコッチふたつ」
答えた瀬戸をねめつける。そんなに強い酒を立て続けに飲むつもりはなかった。明朝に残るような飲み方は、この仕事に転職してから止めた。
「いいだろ?4年前にフラれた腹いせはまだ済んでいないんだ」
「4年前、」
カウンターに頬杖をついて、あんたが何を引き摺るんだと閉口した。
4年前。晴人は週刊誌『ゲンシャ』の記念号を担当していた。故人から新鋭まで歴代のフォトグラファーとタイアップし、『ゲンシャ』が創刊から取り上げてきた現代社会の不安と闇を切り取る、といった内容だった。学生時代から気儘に海外を、特に内戦地域を渡り歩いては際どい写真を撮り、数々の賞を受賞してきた瀬戸有栖はその中でも気鋭の写真家で、その写真を使った記事は記念号の目玉となる違いなかった。
しかし、今、漸く割り切ったつもりでいる自分にとって、蒸し返されるに気持ちの良い話ではない。
「俺の写真に周防が文章付けてくれるっていうから、掲載OK出したのに、署名も書いたこと無いようなひよっこ割り当てられてさあ。」
灰皿の上で焦げていく煙草を横目に見ながら意識して話を聞き流す。瀬戸には悪いことをしたと思っているが、それによって職を失ったのは晴人自身だし、担当記者を変えたのは編集長、牧山の一存によるものなのが大きい。それだけではない。瀬戸によってひよっこと揶揄された男は、晴人の残滓と疎まれながら今なお、その職場にとどまり続けているのだ。
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