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無事に校了を終えると部内全体が静寂に包まれる。それは全員が帰宅したからでも、休憩に出たからでもない。
「おわっ、た……」
誰かの呟く声が聞こえる。半ば伏したままの状態で一史はどの段階だかわからない、とりあえず少なくとも本チャンではない原稿の束の下からライターを取り出すと、パンツのポケットから取り出したしわくちゃのマールボロに火をつけた。デスクに伸びたまま顔を横に向けて一息一息、肺に有害な空気を取り込んでいく。分煙が主流の現代じゃ、こんな上司は嫌われるだろう。嫌われるのはわかっているが、喫煙所まで行く気力がない。臥したまま引き出しを開けて常備している缶コーヒーを取り出した。じりじりと巻き紙が焦げていく。片手でプルトップを開けて、そのまま机の上においた。
微糖の甘さを脳が欲しているが生憎と体を起こす気力が沸かない。
「デスクでは禁煙してくれない?」
まるでその瞬間を待っていたかのように頭上から延びてきた指が唇から煙草を取り上げる。あ、と思う間に開けたばかりの缶に突っ込まれてじっと悲痛な叫びをあげる。煙草もコーヒーもダメにしておいて、編集長は悪びれた風もなく一史を見下ろしていた。校了直後にみたい顔じゃない。いや、正しくはいつだって彼女の顔を見たいときはない。
「山本、資料室に押し込んだんだって?」
体を臥したままで、一史はラックに立てられた資料の背中を見ていた。押し込んだ、なんて人聞きが悪い。押し込んだのではない。ここから追い出しただけの話だ。
自分にとって有益にならないと判断したものを排斥するのは牧山の常套手段だろう。
糖分の足りない脳が血中の苛立ちを高める。こめかみの辺りに溜まる靄を瞼を閉じてやり過ごした。
「後進の教育すらできないわけ?」
「やる気のある人間か、あるいは校了に余裕がある時期なら積極的にやりますよ。」
「校了前に余裕がない何てあんたのプロ意識の低さでしょ」
空きっ腹に栄養ドリンク突っ込んでるだけの状態で牧山のヒステリックな声を聞いていると、いっそう煙草がほしくなる。ささくれた神経はチクチクと脳髄を刺激し、肺の奥が締め付けられる。
「新人教育もろくすっぽできないなんて、前デスクと同じね」
わざとらしいため息が、隙のない化粧の赤い唇から溢れた。
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