770人が本棚に入れています
本棚に追加
処分しそびれたものが転がっていたりしたのだろうかと不安になる。
「な、んですか、」
「あー……これは、だめだ」
目の高さにまで晴人が掲げたボルドーのそれは、半ばあたりに点状の黒いものがいくつも認められた。それに加えて白っぽい、緑っぽいようなものが綿毛のように小さく映えている。晴人は高い鼻梁に皺を寄せて威嚇する犬のようにそれを睨んだ。
「黴てる。」
「黴るって……、」
ネクタイが。
「前に使ったのがいつだったかすら記憶にない」
「その時雨とか降ってたんですかね」
「さあな。」
どうしたものか、クリーニング出したらいいんじゃないですか、その時間がな、俺、行って来ますよ、他愛ない会話を続けながら、結局さっき話題に上せた臙脂のネクタイを首にかける晴人を見ていた。座り込んだまま見上げる晴人の姿は窓から入り込む朝日に縁取られて、光の輪郭を纏って見える。夜の暗い中をひた走り、獲物を襲うような昨夜の淫行も、蛮行も全部洗い流してしまったような洗練されたギャップに眩さを感じながら、あの髪を乱したいと感じていた。
「今日は、遅くなりますか」
欲求に際限はない。執着することが怖いと、離れるのが恐ろしいから近づきたくないと思いながら、それらはすでに一方的に与えられ、一史が恐れる、欲しがるなど無視して抱え込まされている。
「いや、生徒が一緒だからな。遅くなったとしても精々、7時、8時だ」
「直帰しますか?」
「仕事次第だが、」
ネクタイに向けられていた視線が結び目を結い上げると同時に一史に向けられた。間の抜けた形に唇を開いたままでそれを見ていた。前かがみになったせいで、首もとの結び目が近づいてきた。晴人の長身に合うウィンザーノット。首元から、視線を上げる。唇が近づいて目を閉じた。触れるだけの柔い感触に裸のままだった肩が震えた。
「早く帰ってきて欲しいか?」
その感触が離れると晴人はこともなげに易く、一史の心情を掬った。掬った上で悪戯に自分の唇をその舌で拭い、にやと笑んで見せる。見透かされた事実に唇を尖らせると、大きな掌が頭を包んだ。それは相変わらず頭皮に染みて温かかった。
「いや、」
温かくて、嬉しいのに、唇は尖ったままで素直にならない。
「どうせ、俺も、脱稿近くて帰りが何時になるかわかりませんし。」
呟いて俯いた旋毛に、掌とは違う質感が触れた。
最初のコメントを投稿しよう!