プロローグ 【はじまりの夢】

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「見かけぬ顔だったな……。よそ者か……?」  白鹿毛がヒン、と鳴く。村崎はその体を撫でて落ち着かせると、足元で震えている子狐を見つめた。 「もう大丈夫だぞ。狐の子。おや……?」  子狐は恐怖で硬直しているのか、声をかけても微動(びどう)だにしなかった。見れば、背中に傷を()い、橙色の毛は血が(にじ)んでいるせいで黒く染まっているではないか。震えているのは、そのせいかもしれなかった。 「怪我(けが)をしてるのか。さっきのあれにやられたのだな」  なんてひどい奴だ、とぼやきながら、村崎はその場にしゃがみ込み、(ふところ)から麻の巾着(きんちゃく)(ぶくろ)を取り出した。その中に入っているのは小さな(わん)と、馬用の薬。それは痛みを緩和(かんわ)する()り薬だ。 「どれ。じっとしていろよ」  村崎はまず椀に池の水を(すく)って入れ、手ぬぐいにその水を充分(じゅうぶん)()み込ませると、子狐の傷を洗ってやった。小さな木箱の中に指を突っ込み、粘性(ねんせい)のある薬を指先で取る。 「馬の薬だが……、まぁ、狐に効かんことはないだろう」  それをそのまま、子狐の傷の上にぺとりと塗った。途端に、子狐はビクッ! と体を震わせる。 「おっと……、痛かったか? よしよし、大丈夫だ。痛いのはよく効く(あかし)というからな」  村崎は笑いながらそう言って、池の水で手を洗った。 「して……お前はなぜ追われていたんだ?」  答えることができないと知りながら、子狐の頭をそっと撫でて、村崎は(たず)ねる。 「まぁ良い。あまり人に近づきすぎてはならんぞ。人というのは信用できん生き物だ」  いや、自分もまた人であったか、と思いながら、村崎は笑みを(こぼ)す。それからなおも子狐の頭を撫でた。ふかふかとした毛の手触りは柔らかく、指に心地良かった。 「私は村崎清之介だ。お前は? よくここへ来るのか?」  まん丸とした黒く愛らしい目が、村崎をじっと見つめる。わかりもしないであろう、人の言葉に懸命に耳を(かたむ)けているようにも見える姿に、村崎は目を細めた。  ほどなくして、しんと静まり返った池に水鳥達が戻って来た。すると――。バサバサと羽の音を騒がしく立てながら、次々に池に飛び込むその音に驚いたのだろう。子狐は飛ぶような速さで、()(しげ)るすすきの群生の中へあっという()に入って行ってしまった。 「行ってしまったか……」  ガサガサとした音が、次第に遠くなっていく。やがて物音は聞こえなくなり、辺りには再び静寂(せいじゃく)が訪れた。 「悪さをするなよー! また会おう!」  口元に手を当てて叫んだ村崎の声が、辺りにこだまする。  化け狐か……。あやつが本当にそうだとは思えないが……。  そう思った時だった。不意に、大きな音が耳のすぐ(そば)で聞こえた。けたたましく鳴る(かね)()に、村崎は耳を(ふさ)ぎ、目を(つぶ)った。 「んん……っ」  耳元で、鐘の音が鳴る。まるで頭を殴られているかのように起こされ、うっすらと目を()けた。おもむろに枕元のケータイに手を伸ばし、当たり前にアラームを切る。いつも通りの朝だ。 「あぁ、夢か……」  寝返りを打ち、大あくびをして、男にしては少し長めだと言われる黒髪をくしゃくしゃと()く。そのまま、少しはだけていた布団を(かぶ)った。  (なつ)かしい夢を見たな……。  それは遠い遠い昔の記憶。まだ自分が今の自分ではなかった頃の思い出だった。
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