第一話【満月の夜に】~千代田朔~

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「千代田くん……? おーい、千代田くん?」 「はっ……! はい、すみません! 聞いてませんでした……!」  張りのある声で呼ばれて、咄嗟(とっさ)に我に返る。朔は会社の休憩室で、独り悶々(もんもん)と考え事をしながら昼食を取っている最中(さいちゅう)だった。テーブルの上にはさっきコンビニで買った大好物の稲荷寿司が三つと、食べかけのサラダが乗っている。声をかけられて我に返った朔は、自分が今、昼休憩中だった、ということを思い出し、ほっと息を()いた。と、同時に鋭い視線を感じて、恐る恐る顔を上げる。 「あ……、市川(いちかわ)さん……」  目の前で(ほお)(ふく)らませ、不機嫌そうに朔を見下(みお)ろしているのは、先輩社員の市川だ。朔が入社してきた約数ヶ月前、まるで女神のように優しく、穏やかだった彼女は今、眉間(みけん)(しわ)を寄せてすっかりご立腹(りっぷく)だった。もっとも、ここ最近はずっとそうで、それが自分のせいであるということも朔はわかっている。 「ったく……、大丈夫? あんたここんとこ、いつもボーっとして! 目ぇ()けて寝てんのかと思ったわよ」 「すみません……」 「また()せたでしょ! ちゃんと食べてんの?」  市川はそう言いながら、コンビニのレジ袋を手に()げて朔の隣の席に座った。 「まぁ……。一応……」 「課長も随分(ずいぶん)心配してたわよ。あ、どれか食べる?」  一口サイズのサンドイッチがずらっと並んだプラスチックの容器を差し出された。が、朔は首を横に振る。 「そう? あれ……、まぁたお稲荷さん食べてんだ。ホンット好きねぇー」  けらけらと笑いながら、市川は紙パックのジュースを袋から取り出して、ストローを差し、口に(くわ)えた。 「これだけは……、食欲無くても食べられるんです……」 「ふうん。ねぇ千代田くん、あんたまだあの事悩んでるわけ?」 「はい……」  今は声を出すのも(つら)いが、朔は精一杯答えた。市川はそんな朔の背中をバシッと(たた)く。 「こんな()昼間(ぴるま)から死にそうな声出さないでよぉ。こっちまで生気(せいき)がなくなっちゃうじゃない」 「すみません……」  沈んだ声で謝る朔を市川は(あき)れ顔で見つめたが、それからすぐに何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。 「そうだ……! ね、お(はら)いでもしてもらったら?」 「お祓い……?」  朔が聞き返すと、市川はしっかりと(うなず)いた。 「そう! いい人紹介してあげる!」 「はぁ……」  ため息なのか返事なのか、自分でもわからないような相槌(あいづち)を打った。市川は朔の返事に不満そうな顔を見せて、ケータイをポケットから取り出して(いじ)り始める。 「私の同僚の知り合いの……友達? だったっけかな。まぁ、とにかく知人の紹介なんだけどね」  随分遠い知人だ、と思いながら朔は市川のその先の言葉を待った。 「霊媒師(れいばいし)さんで、占いもやってる人がいるの。ちょっと相談してみたらどう?」  朔はすぐ眉をしかめる。霊媒師、占い――。あまりに(あや)しげではないか。恐らくはそういう反応をされると予想していたのか、市川は困り顔で笑った。 「私もねー、それ聞いた時は怪し()ぎるって思ってたんだけど、これがまたすっごい当たる人なのよ!」 「行ったんですね……」 「そう。意外だと思わない? この私がよ?」  市川は(とく)意気(いげ)に胸を張った。 「……確かに」  市川は占いとか霊とかそういうものを一切信じない典型的な理系人間だった。『世界はサイエンスでできている』とか、『霊と呼ばれるものは、人間の脳が見せている幻覚に()ぎない』というのが彼女の口癖(くちぐせ)だった。とにかく科学的に証明できないものというのはあり得ない、単純に今現在、それらが証明できていないだけなのだ、と彼女は常日頃(つねひごろ)(もっと)もらしく語っていたのである。その彼女が突然占いなんて言い出すものだから、朔は少し驚いた。 「意外です。市川さんもそういうの行かれるんですね」 「いや、最初は付き合い半分、好奇心半分だったのよ。だけど言われたことは本当に当たってたし、話してるとすっごく落ち着く人でね! こう、なんて言うのかな……。柔らかぁーい感じ? だから、気兼ねなく何でも話せると思うわよ! しかも、イケメンだしね!」  ……なるほど、そういうことかぁ。  それを聞いて合点(がてん)がいった。いつもなら占いなんて信じないはずの市川は、特段占ってもらいたいのではなく、もっと言えば、何か相談したいことがあるわけでもなく、単なるイケメン目当てなのかもしれない。確か彼女は今、絶賛恋人募集中だったはずだ。ただ、本命はいるらしい。もっともこれは、朔の勝手な予想ではあったが。 「市川さんは、(たき)課長のことが好きなんじゃないんですか」 「やだ、ちょっと……!」  聞いた途端に、市川は慌てて人差し指を口の前に当てた。 「なんで知ってるわけ……?」 「見てれば何となく……、わかります」  朔がそう言うと、市川ははあっと深くため息を()いて、長い黒髪をかき上げる。 「内緒よ、内緒」  みんな知ってると思います、と言いそうになって、言葉を()み込んだ。そんなことはどうでもいいし、この話を(ふく)らませるのも面倒だった。  総務課長を務めている、(たき)(まさ)(のぶ)という男は、朔の直属の上司だ。年齢は三十過()ぎで、市川の一つ年上だと聞いている。ちょうど結婚適齢期を迎えた彼は、容姿が整っていて仕事もできるし、社交的で優しく、しかも(こま)やかな気遣(きづか)いができる男だった。当然、社内からの評判はすこぶる良く、女性からは特に人気がある。市川も例外ではなく、いつも瀧を目で追っていた。 「私より、あんたよ。そもそも、あんたの話は警察じゃ聞いてくんないだろうし、お客様サービスセンターでも無理なんだから……」 「お客様……サービスセンター?」 「ほら、寝具のメーカーにさ、この枕で寝ると悪夢を見るんですけどどうなってるんですかって言うとか!」 「あぁ……」  朔は(はし)を取って、食べ途中だったサラダを口に運んだ。それからペットボトルの麦茶を飲んで、(のど)の奥へと流し込む。 「寝具は、実家から持って来たやつなのでずっと使ってるし、関係ないと思うんですよ……」 「あのねぇ……、冗談なんだから真面目に返さないでくれる? とにかく悪夢のせいで眠れないなんて悩みは、占い師とか霊媒師にでも相談するっきゃないでしょ? 心療内科なんて行ってみなさいよ。効くのかどうかすらわかんないような睡眠薬出されて終わりよ?」 「はぁ……」  仮にも、製薬会社に勤める人間が言う言葉だろうか、と思いながら、朔はやっと好物の稲荷寿司を頬張(ほおば)った。  かぶりついたその瞬間から、甘さとほどよい油分がじゅわっと口の中で広がっていく。好物のおかげか、ほんの少しだけ、強張(こわば)っていた体がほぐれていく気がした。食欲がなくて味覚がちょっと狂っていても、これだけは美味(おい)しく食べられる。今の朔にとって、稲荷寿司は重要なエネルギー(げん)だ。
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