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「千代田くん……? おーい、千代田くん?」
「はっ……! はい、すみません! 聞いてませんでした……!」
張りのある声で呼ばれて、咄嗟に我に返る。朔は会社の休憩室で、独り悶々と考え事をしながら昼食を取っている最中だった。テーブルの上にはさっきコンビニで買った大好物の稲荷寿司が三つと、食べかけのサラダが乗っている。声をかけられて我に返った朔は、自分が今、昼休憩中だった、ということを思い出し、ほっと息を吐いた。と、同時に鋭い視線を感じて、恐る恐る顔を上げる。
「あ……、市川さん……」
目の前で頬を膨らませ、不機嫌そうに朔を見下ろしているのは、先輩社員の市川だ。朔が入社してきた約数ヶ月前、まるで女神のように優しく、穏やかだった彼女は今、眉間に皺を寄せてすっかりご立腹だった。もっとも、ここ最近はずっとそうで、それが自分のせいであるということも朔はわかっている。
「ったく……、大丈夫? あんたここんとこ、いつもボーっとして! 目ぇ開けて寝てんのかと思ったわよ」
「すみません……」
「また痩せたでしょ! ちゃんと食べてんの?」
市川はそう言いながら、コンビニのレジ袋を手に提げて朔の隣の席に座った。
「まぁ……。一応……」
「課長も随分心配してたわよ。あ、どれか食べる?」
一口サイズのサンドイッチがずらっと並んだプラスチックの容器を差し出された。が、朔は首を横に振る。
「そう? あれ……、まぁたお稲荷さん食べてんだ。ホンット好きねぇー」
けらけらと笑いながら、市川は紙パックのジュースを袋から取り出して、ストローを差し、口に咥えた。
「これだけは……、食欲無くても食べられるんです……」
「ふうん。ねぇ千代田くん、あんたまだあの事悩んでるわけ?」
「はい……」
今は声を出すのも辛いが、朔は精一杯答えた。市川はそんな朔の背中をバシッと叩く。
「こんな真っ昼間から死にそうな声出さないでよぉ。こっちまで生気がなくなっちゃうじゃない」
「すみません……」
沈んだ声で謝る朔を市川は呆れ顔で見つめたが、それからすぐに何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そうだ……! ね、お祓いでもしてもらったら?」
「お祓い……?」
朔が聞き返すと、市川はしっかりと頷いた。
「そう! いい人紹介してあげる!」
「はぁ……」
ため息なのか返事なのか、自分でもわからないような相槌を打った。市川は朔の返事に不満そうな顔を見せて、ケータイをポケットから取り出して弄り始める。
「私の同僚の知り合いの……友達? だったっけかな。まぁ、とにかく知人の紹介なんだけどね」
随分遠い知人だ、と思いながら朔は市川のその先の言葉を待った。
「霊媒師さんで、占いもやってる人がいるの。ちょっと相談してみたらどう?」
朔はすぐ眉をしかめる。霊媒師、占い――。あまりに怪しげではないか。恐らくはそういう反応をされると予想していたのか、市川は困り顔で笑った。
「私もねー、それ聞いた時は怪し過ぎるって思ってたんだけど、これがまたすっごい当たる人なのよ!」
「行ったんですね……」
「そう。意外だと思わない? この私がよ?」
市川は得意気に胸を張った。
「……確かに」
市川は占いとか霊とかそういうものを一切信じない典型的な理系人間だった。『世界はサイエンスでできている』とか、『霊と呼ばれるものは、人間の脳が見せている幻覚に過ぎない』というのが彼女の口癖だった。とにかく科学的に証明できないものというのはあり得ない、単純に今現在、それらが証明できていないだけなのだ、と彼女は常日頃、最もらしく語っていたのである。その彼女が突然占いなんて言い出すものだから、朔は少し驚いた。
「意外です。市川さんもそういうの行かれるんですね」
「いや、最初は付き合い半分、好奇心半分だったのよ。だけど言われたことは本当に当たってたし、話してるとすっごく落ち着く人でね! こう、なんて言うのかな……。柔らかぁーい感じ? だから、気兼ねなく何でも話せると思うわよ! しかも、イケメンだしね!」
……なるほど、そういうことかぁ。
それを聞いて合点がいった。いつもなら占いなんて信じないはずの市川は、特段占ってもらいたいのではなく、もっと言えば、何か相談したいことがあるわけでもなく、単なるイケメン目当てなのかもしれない。確か彼女は今、絶賛恋人募集中だったはずだ。ただ、本命はいるらしい。もっともこれは、朔の勝手な予想ではあったが。
「市川さんは、瀧課長のことが好きなんじゃないんですか」
「やだ、ちょっと……!」
聞いた途端に、市川は慌てて人差し指を口の前に当てた。
「なんで知ってるわけ……?」
「見てれば何となく……、わかります」
朔がそう言うと、市川ははあっと深くため息を吐いて、長い黒髪をかき上げる。
「内緒よ、内緒」
みんな知ってると思います、と言いそうになって、言葉を呑み込んだ。そんなことはどうでもいいし、この話を膨らませるのも面倒だった。
総務課長を務めている、瀧雅信という男は、朔の直属の上司だ。年齢は三十過ぎで、市川の一つ年上だと聞いている。ちょうど結婚適齢期を迎えた彼は、容姿が整っていて仕事もできるし、社交的で優しく、しかも細やかな気遣いができる男だった。当然、社内からの評判はすこぶる良く、女性からは特に人気がある。市川も例外ではなく、いつも瀧を目で追っていた。
「私より、あんたよ。そもそも、あんたの話は警察じゃ聞いてくんないだろうし、お客様サービスセンターでも無理なんだから……」
「お客様……サービスセンター?」
「ほら、寝具のメーカーにさ、この枕で寝ると悪夢を見るんですけどどうなってるんですかって言うとか!」
「あぁ……」
朔は箸を取って、食べ途中だったサラダを口に運んだ。それからペットボトルの麦茶を飲んで、喉の奥へと流し込む。
「寝具は、実家から持って来たやつなのでずっと使ってるし、関係ないと思うんですよ……」
「あのねぇ……、冗談なんだから真面目に返さないでくれる? とにかく悪夢のせいで眠れないなんて悩みは、占い師とか霊媒師にでも相談するっきゃないでしょ? 心療内科なんて行ってみなさいよ。効くのかどうかすらわかんないような睡眠薬出されて終わりよ?」
「はぁ……」
仮にも、製薬会社に勤める人間が言う言葉だろうか、と思いながら、朔はやっと好物の稲荷寿司を頬張った。
かぶりついたその瞬間から、甘さとほどよい油分がじゅわっと口の中で広がっていく。好物のおかげか、ほんの少しだけ、強張っていた体がほぐれていく気がした。食欲がなくて味覚がちょっと狂っていても、これだけは美味しく食べられる。今の朔にとって、稲荷寿司は重要なエネルギー源だ。
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