1299人が本棚に入れています
本棚に追加
おいしい……。
市川は「若いんだからもうちょっとシャキッとしなさいよねー」と言いながら、財布の中身を漁って、一枚の名刺を朔に差し出した。
「はい、これあげる」
つるっとした光沢のある紙に印刷された、黒いハッキリとした文字を、朔はじっと見つめる。
「霊媒・占い師、時村紫月……」
そこにはそう書いてあった。
胡散臭い……。
「この人、結構人気あるみたいだから予約しないとダメだと思うけど、連絡してごらん。ホントにお勧めだから! イケメンよ、イケメン!」
「あの、市川さん……。僕、男なんですけど……」
「わかってるわよ。でも、むさくるしいおっさんなんかよりずっといいでしょ?」
「はい……、まぁ」
「まぁ、じゃないの。そうに決まってんの」
市川はそう言うと、あっという間にパックの中のサンドイッチを平らげてしまった。できれば、若くて綺麗な女性の方がいいけれど、と思ったが、それは言わなかった。
朔は今年の四月から新社会人として、東京都内の大手製薬会社で働いている。勤務してからはまだ半年ほどしか経っていない。今はとにかく仕事を片っ端から覚えなければならず、実に多忙だ。ただし、給料はそこそこもらえるし、そう多くはないが夏にはボーナスも出た。ついでに社内の人間関係も良好だ。
自宅は会社近くの貸家で、一人暮らし。朔は社会に出た勢いのまま実家を出て、親元を離れている。実家は都内にあって、通勤するのにもさほど不便はなかったのだが、貧しかった。
父は自宅の一階で小さな工場を経営していて、母はそれを手伝っている。特段、社会に出たら一人で暮らすように言われていたわけではなかったが、朔は高校を出て、大学に通い始めた頃から、自然とそうするべきだと思うようになった。裕福ではないのにもかかわらず、大学の、しかも薬学部に六年間も通わせることは、朔の両親にとっては決して容易ではなかったはずだ。多少なりとも無理をさせていただろうと思う。
家族三人でちょうど囲めるほどの座卓に帳簿を広げて、電卓を打ちながら顔をしかめる母の姿を見る度に、朔は自分が大学に通うことは決して当たり前ではないのだ、と言われているように感じていた。
実家を出たのは五月の事だった。まだ社会人になり立てホヤホヤで、貯金もろくに貯まっていない状態ではあったのだが、朔は親元にいることをさも窮屈そうに見せて家を出た。それが自分なりの親孝行だった。だが、どうもその頃から調子がおかしいのだ。
眠たい……。
昼食を終えて自分の席に戻ると、すぐにあくびが出た。朔はここ数ヶ月、もうずっと寝不足だ。と言っても、夜は遅くても十二時までに床に入っているし、寝る前にコーヒーを飲んでいるわけでもない。しかも、体は慣れない仕事ですっかり疲れているのだから、適当に空腹を満たした後に風呂にでも浸かれば、眠気はすぐにやって来る――はずである。それなのに、朔はほぼ毎夜、悪夢にうなされてろくに睡眠を取れていない。日中、常に眠いのは間違いなくそのせいだった。それも決まって同じ夢を見る。真っ赤な蛇の夢だ。
それに気付いた当初は、何かきっと原因があるはずだと思い、自分なりに快眠法などを調べて端から試してみたり、寝酒をしてみたりした。しかし、どれも全くと言っていいほど効果はなかった。何度か市販の睡眠薬も試した。結果は変わらなかった。
やっぱり……あの家のせいなのかな……。
パソコン画面を前に仕事を熟しながら、朔の頭の中を巡るのは、暮らし始めたばかりの家のことだ。
朔の新居は、最寄駅から徒歩圏内の場所にある平屋の一戸建てである。毎月の家賃は相場よりも遥かに安く、実に魅力的な物件だった。ただし、そこは築四十年と古く、また本当に小さく、こじんまりとした家だ。――が、住む前にはクリーニングが入って家の中は適当に綺麗になったし、エアコンと畳は新品に取り替えてくれた。
そこに住むに至っては何の問題もない。寧ろ気に入っている。ちょっと時代遅れな古臭い家の造りにはどこか懐かしさを感じるし、畳の匂いも小さな縁側も、その先にある狭い庭も趣があっていい。ただ何度思い返しても、間違いなくあの家に住み始めた頃からなのだ。朔の体調がおかしくなったのは。
もしかしてあそこ、事故物件だったりして……。
古い家だから、あり得ない話ではないかもしれない。朔はさっき市川にもらった名刺を、ポケットから取り出した。
お祓いなんて嘘くさい気もするけど、これ以上寝不足続いたら本当に倒れちゃいそうだし、電話してみようかな……。
そういうわけで、朔は夕方、名刺に書かれた番号に連絡した。溺れる者は藁をも掴む、とはよく言ったものだ。『霊媒師、時村紫月』はこの時の朔にとって、まさにそれだった。
最初のコメントを投稿しよう!