三〇一号室

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三〇一号室

 あーあー。涎を垂らした口から、純粋な母音からわずかに逸れた不気味な声を漏らす。半身を擦らせながら、交互に手を突きながら、ヤツは彼女を追いかける。  彼女は悠々とヤツから離れる。でかい図体をしているが、動きは遅い。最短経路に沿って進むだけで、頭も良くない。  彼女は体の痺れを感じ、足を止めた。足先から始まったそれは、あっという間に全身に広がり自由を奪っていく。地面に触れている感覚を失い、バランスを崩して横たわった。辛うじて動いた眼球は、古びた押し入れの前で倒れていることしか情報を与えなかった。  これが初めてではない。またかと、彼女は悔しく思う。  立ち上がろうと全身に力を込めても、ばらばらに切り離された体を動かそうとしている感覚で、どの足も思ったように反応を返さない。  ヤツが口端を上げてねちゃりと笑う。彼女を視線の中央に捉え、一歩一歩距離を詰める。経路に置かれていた布団を乗り越え、口をぱくぱくさせながら、手の届くところまで近寄る。  ヤツは体を傾けて地面から手を離し、倒れそうになりながらも腕を伸ばした。荒い鼻息がかかる。ぷっくりした指が、彼女の黒い体に触れる。  彼女は堪らず悲鳴を上げた。 「ニャー」  麻痺しているためか、喉から絞り出された声はいつもよりか細かった。  五指がためらいなく尻尾を掴む。つやつやした毛並みの長い自慢の尾は、千切れんばかりにピンと張った。  主人がする愛情のあるタッチは歓迎している彼女だが、存在を確かめるためだけのタッチにはただただ嫌悪を感じていた。  抵抗が無いのを良いことに、ヤツは手加減無く叩く。ねっとりと撫でたかと思えば、意外に力の強い指先で遠慮なくつまむ。ヤツが飽きるまで、それは延々と続く。  人はこれを地獄と呼ぶ。彼女は諦めて目を閉じた。
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