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「おい」
黒い影とともに、低い声がキケロの頭上から降ってきた。
「おいおいおーい。ったく、どうしてくれンだよぉ。ぼけーっとしてたアンタのせいで、オレの大事な外套が汚れただろうがっ」
キケロが顔を上げると、三人組の男たちに行く手を塞がれていた。肌は赤黒く陽に焼けていて、そろいもそろって筋骨隆々とした体躯をさらしている。
ただのゴロツキにしては目つきが鋭く、白昼のアッピア街道だというのに堂々としている。軍人くずれかもしれない。関わりたくない手合いだった。正面から睨みつけられて、反射的に目をそらすが、余計に彼らの癇に触ったらしい。
「アンタはよぉ、他人様に迷惑をかけても謝りもしねェのかよ」
頬に大きな傷のある男が一歩前へ出て、野太い声を張り上げる。
「す、すまない」
鋭い眼光に射抜かれ、立ちつくしたキケロの口から漏れたのは、かすれてうわずった吐息のようなものになっていた。
「あァ? 声が小さくって聞こえねェなあ」
「ナリがちっこいと、肝っ玉もちっこいんじゃねえ?」
「ってえことは、アッチの方もチビっこいんじゃねえの?」
ひどい訛りを隠そうともしない。野卑な笑い声をあげる連中に取り囲まれ、キケロは一歩後ずさっていた。
「あんだよ、この野郎。オレらから逃げようってのかァ」
頬に傷のある男が腕を伸ばしてきた。強い力で両肩をつかまれ、激しく揺さぶられる。キケロは息を飲みこんだまま声も出せず、されるがままになっていた。
往来の人々は関わり合いになるのを避けるように、先を急ぐ者ばかりだった。人も馬も野犬でさえも目も合わせずに足早に通り過ぎていく。
これがこの国の現実だった。
正義も秩序もない。
遠方の各都市から巨万の富が流れこみ、地中海世界に並ぶものがないと称えられている大都市ローマの実情はこんなものだ。理不尽で剥き出しの暴力にさらされても、非力な人間には為す術がない。我が身に降りかかった災難一つ払うこともできない。
キケロは深くうつむいて、唇を噛みしめた。
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